素朴な愛のマニフェスト







再び?いや、もう幾度もだ。
いい加減一言言ってやらねばと思い彼の家へ向かってハーレーを飛ばす。
あいつも物好きだ。何で私に拘わるのだ。
ブラック・ジャック先生なら主人の病気を治せる、と喜びに満ちた電話は、私にとって安楽死キャンセルの知らせ。
悔しいったらありゃしない。
余裕の表情で患者を治すと宣言出来る彼に嫉妬をしている。
患者は昼過ぎに来ると聞いていたし、久々の日本での休養日だから普段は遅起きなのだが、
なんせキャンセルコールがかかったものだから伏せめがちな瞳もかっ開いた。
うさ晴らしか八つ当たりか、とにかく私は彼に会いに行かずにはいられない。

コツコツと扉をノックする。
手術中だろうか。
あの肺に巣食った癌は容易く取れない事はレントゲンで私も分かっている。
ならば、と私はテラスの窓から彼の家へ侵入し、手術室前のソファに座っている事にした。
『手術中』という文字がうす暗い、赤いランプに照らされ、共に斜光を遮断された廊下がぼうと赤く揺れていた。
一体何時から手術を始めたのだろうか。
家族が患者を連れてきて安楽死をOKし、もう1日だけ家で過ごしたいというから返したらこの様か。
夜8時に私の家を出て、家に帰り、彼から電話が来て、彼の家へ向かった…と。
彼にも前々から少し連絡をいれていたのだろう。
私はスーツの胸ポケットから時計を出した。
まああの末期癌なら緊急手術だろうから、夜中から始めたとしてももう9時間は経っている…、
もう7時を過ぎているじゃないか。
患者が政治界で今少しスキャンダルになっているものだから家族には帰ってもらったのだろう。
無免許医に病を治してもらうなんてジャーナリストにとって話のネタになる。
嗅ぎつけられたら後々厄介になるからという事を家族も承諾したに違いない。
時計を元に戻し、小さく息を吐く。
時計の針の振動が胸から耳へ、やけに大きく伝わった。

ふと、廊下を照らしていた赤が消えた。
顔を上げると同時に手術室のドアの向こうから手術着を投げ捨てながら彼が現れ、
途端、ふらふらと前のめりに大きく揺らいだ。


「おい…っ!?」


私は立ち上がり彼の体を抱きとめる。
顔は少し桃色に火照っていて、息は荒く、額は燃える様に熱い。
馬鹿かコイツは。風邪を引いているのに手術をしたのか?


「ア…、…りこ……?」
「はぁ…、何やってんの」
「お、ぺ…」
「分かってるよ」


閉じた瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちている。
そのまま彼は膝をがくりと折り、へなへなとその場に崩れた。
私のスーツの裾をくん、と引っ張り項垂れながら『連れていけ』と小声で呟き、
痛むのか片手で頭を抑えながらその行為をやめようとはしなかった。
私は溜息を吐いて彼を持ち上げた。
寝室は何時もは綺麗だが、寝乱れたままだ。
患者の事が気になって眠れず、電話をかけに行ってそのままなのだろう。
橙を灯すベッドスタンドを点け、私は彼をベッドに降ろした。
熱いのか、上手く動かない手で彼はシャツのボタンを外そうとしている。


「ん…、熱……」
「全く…、ほら、貸してみな」


くいとシャツを引っ張りボタンを外した。
熱を逃がすのには一番効果的だが、違う面で私にも効果がある事を知ってもらいたい。
ベッドに沈んでいる彼に布団をかけ、私はキッチンに水を、鞄の中に抗生物質を取りに行った。
手術中もあんな感じだったのだろうか。
いや…、彼の集中力は大したものだ。
何も感じずに手術をしていたところ、終わった途端に緊張が解け一気に熱が上がったのだろう。
前のめりによろめいた寸前笑っていたから、きっと手術は成功だ。
と思いつつ、自身も笑みを浮かべている事に気付く。
ああ。一体何の為に彼の家へ来たのだっけ。
ぼんやりと思考の片隅でもうどうでもいい事を考えながら、私は寝室へ戻った。
先程と何ら変わりは無い.
変わりは無いのだが―――…、唯一、彼が頭まですっぽり布団を被っている。
先刻布団をかけた瞬間熱いと布団を蹴飛ばしていなかったっけ。
布団を下げようとすると、それを彼は頑なに拒んだ。


「コラ。薬飲め」
「……嫌だ」
「お医者が何言ってんの、ホラ」
「嫌だってば!!」


ぎゅうと布団を掴んで布団の中に彼は潜り込んだ。
時々、彼が分からなくなる。
というかいきなり突拍子もない行動に出るので困る。
此方はどうすればいいかが分からないのに、その行動を取る理由を話そうとはしない。
この天邪鬼め。


「この…っ!出て来い!!」
「っ…!!」


力ずくで布団を剥ぎ取るとしまった、という彼の顔がのぞいた。
水の入ったグラスと抗生物質を押し付け顎で命令すると、
顔をふいと横に背け人の折角の好意を拒もうとするものだから、
グラスをそおっと斜めにして水をベッドの上に零すぞと脅しをかけると彼はグラスに飛び付いてきた。

バツの悪そうな顔をしながら渋々薬も受け取りごくりと飲み干して、
ずいとグラスを私の方に差し出し、また布団に潜り込んだ。
そして私の方に背を向けてまた頭まですっぽりと布団を被る。
素直じゃない。
そこが可愛いのかもしれないのだが。


「何お前…?弱ってるトコ見られて恥ずかしいの?」
「っ―――!違っ…!!」


ぐるりと身体を此方に向けて彼が叫びかけた。
大げさ過ぎる否定は図星の時の癖。
口ぱくぱくと動かしてからへの字に曲げて言い返す言葉が見つからず、またふてくされる。
低くうめいて彼はちらりと私を見た。


「何で、此処にいる、の…」
「ん〜…、何か理由があったんだけどね〜…、忘れた」
「……患者の事だろっ」
「ああ…そうだった―――かも」
「は?」
「いや…、どうでもいいさ、うん」


私は彼の髪をくしゃくしゃと撫でた。
彼はこうされるのが好きだから。
そっと瞳を瞑って、彼はされるがままになっていた。
少し汗ばんだ髪は額に張り付いていて、それを耳にかけてやる。
ベッドサイドに腰を掛け、私は暫くの間そのままでいた。
何時の間にか彼は寝ていて、その呼吸は心なしか先程よりも安定しているようだった。
ずれている布団を肩までかけてやると彼の瞳がうっすら開いた。
そろりと私の方に手を伸ばし、シャツを握り締める。


「キリコ……」
「ん?」
「ごめん」
「……」
「……、ありが、とう」
「…どういたしまして」


謝罪はきっと患者を取った事について。
感謝はきっとこの状況について。
何とも…、熱に浮かされているのか、素直になるものだ。
再び彼は瞳を閉じて、深い眠りへとついた。
シャツを掴んでいた手がするりと落ちる。
その腕を布団の中へ入れてやり、私はもう一杯グラスに水を注ぎに行った。
彼は、すうすうと寝息をたて静かに眠っている。
この姿が、彼が、どれだけ愛おしいのだろうか。
笑みが零れ落ちる。
私は適当に本棚から書物を取り出し、寝室のロッキングチェアに腰を掛けた。
静かな空間に二人きり。
とても、嬉しい事だった。
私はただ、彼に逢いたかったから患者の事を理由に此処に来たのだと、
今になってようやく『会いに行かずにはいられない』衝動の理由が明らかになった気がした。
別に何を言いたかったわけでもなく、ただ、逢いたかったのだ。
全くそれが良いタイミングだったのか、私が来なかったら彼はあそこで倒れていたかもしれない。
それもまあ、彼らしいかなと。
無理をして倒れるまでやるのも彼の良いところだなと。












そんな彼の事を考えていたら

















左の胸の中心が、じんわりと温かくなって、心地が良くて



























何時の間にか私は ゆっくりと瞳を閉じていた





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06.06.17