ワルツ・ワルツ・赤い靴






カツカツと靴が刻むリズム。
レトロに流れる音質の悪いクラシック。
耳障りな音と音の調和が、私を絶望させる。
そう、まさに、そこだけセピア色。
空間から切り取られた、捻れた時空の狭間だった。

瞳の中の人形は、きっと笑っているのだろう。
ロッキングチェアの肘掛の下に足を通し、逆に座って揺れながら思った。
目の前の彼はやっぱり美しくて、その顔に張り付いた笑顔もやっぱり綺麗だった。
何時もと変わらない真っ黒な服に赤いリボンタイと、一つだけ違う白い靴。
止めどなく、飽きることなくその靴を履いた彼は踊り続ける。
遠い昔に似たような童話を読んだ事が、あったような気がする。
ぼうと霞んだ記憶のもやを瞳を瞑って手繰り寄せた。
『赤い靴』…そんなタイトルだったと思う。
記憶でしかないものに確信は無い。
内容なんて勿論覚えていない。
ただ、そのタイトルにされた『赤い靴』が、履いた少女の意思に関係無く踊り続ける事だけを覚えている。
子供ながらに肌寒さを感じた。
最終的にその靴から開放される為に少女は足を切り落としたのではなかっただろうか。
子供用の絵本にそこまでの描写は描かれていなかったが。

まさにそれだ。
赤くはないけど、それなのだ。
この瞳の前で踊っている、彼の足元にそれはある。
新品そうな白い靴が、フローリングを鳴らしている。
一体何時からなのだろう。
昨日は、何時ものように味気の無い夜を過ごして、泊まって、コーヒーを飲みに起きてきたらこれだ。
カツカツと靴が刻むリズム。
レトロに流れる音質の悪いクラシック。
途切れる事の無い鼻歌。
偶に、レトロとハモってみたりして。


「ブラック・ジャック」
「ん〜?何ですか〜、キリコ先生」


彼は此方を見向きもしない。
一心不乱に、まるで強制されているかのように踊っている。


「それさ、イチイチ巻き戻さなきゃ駄目だろ、カセット」
「そうだねぇ」
「俺が弾いてやろうか」


ぴたりと彼の足が止まった。
背を向けていた彼がぐるりと首を傾けながら振り向く。
不自然に傾いた首が何だか気持ち悪かった。


「頼みますわ」
「…カセットよりゃ大分長く続けられるぜ」


私は立ち上がり背伸びをしてコーヒーを啜った。
一息置いて、セピア色の空間の中へ向かって足を進める。
部屋の片隅にあるグランドピアノは、シンデレラみたいに埃まるけだ。
光沢がかった黒の艶めいた質感を持つ筈の表面はザラザラしていた。
その上には初級者用の薄っぺらい楽譜が何枚か折り重なっていて、日に焼けてセピア色になっていた。、
セピア色の中のセピア色って何だ。
よく分からない疑問が頭の中に浮かんだが、私は放っておく事にした。
椅子の高さを合わせ、鍵盤の上に指を置いて、少し躊躇する。
もしこの指が赤い靴を履いたように、自分の意思に関係無く弾き続けたらどうしようか。
この変な不安も私は放っておく事にした。
後ろから彼の無言の威圧が「早く弾け」と急かしているからだ。
気持ちを静めてから、私は彼の好みそうな曲を片っ端から弾いていった。
思いつかなくなったら同じ曲をリピートし、また始めの曲に戻ったりした。
彼の刻むリズムはカツカツとフローリングを鳴らし、場に似合わない程軽快だ。
音質の悪い曲との調和よりは大分耳障りでなくなった。
私の奏でる曲に時にリズムを合わせ、時に裏の拍を取って、彼は踊る。
…少し、指に疲れを感じ始めた時だった。
何やら彼がブツブツと呟いているのが聞こえた。


「……ノコ、楽し…、…?私は……」
「…ブラック・ジャック…?」
「フフ…、ック、ハ、ハ……!」


私は曲を間違えないよう、後ろを振り返った。
そこには先程と変わらず、人間の形をした人形と手を繋ぎ、踊っている彼がいた。
しかし、履いているのは赤い靴だった。


「あれ…?お前何時の間に靴変えた?」
「え〜?変えてないけど」


やはり彼は不自然なくらい首を傾けて此方を見た。
その顔に張り付いた笑顔は涙を流していた。
涙に戸惑いつつも、状況と矛盾しているその靴に私は再び瞳を映し、絶句した。
それは赤い靴ではなく『赤く染まった白い靴』だった。
さすがに鍵盤を滑る指の動きが止まった。
彼に駆け寄り肩を揺らす。


「おい!何やってんだ!!」
「踊ってる」
「…ッ違う!違う!!お前…、足が…、…っ」


気が付くべきだった。
もう日は南中を当の昔に過ぎているのに、こんなに長時間踊っていって腫れない足があるのだろうか。
新品の履き慣れていない靴でここまで踊れる足があるのだろうか。
そんなのあるわけがない。
赤黒く腫れあがった彼の足からは血が溢れ出ていた。
その止まる様子の無い血が靴に瞬く間に滲んでいったのだ。
私は彼を椅子に座らせようとしたが、彼はぴくりとも動かなかった。
ぎゅっと人形を抱きしめて、喉の奥から笑いを堪えている。
かと思えば、ふと顔を上げ何も張り付いていない無の表情で私を見て叫んだ。


「曲を止めるな!!」
「何…言ってんだ!お前の足!どうなってるのか分かっているのか!!?」
「踊ってやらないとピノコが寂しがるだろう!!」
「…は?…ピノコ…ってさ、お前」


見ている限りでは、彼はその人形を抱きしめて、愛おしそうに口付けている。
何言ってるんだよ。
何処にいるんだよそんな子が。
もう、いないだろう。


「もういい!カセットかける!」


彼は私を突き飛ばして、カセットを巻き戻し再び赤い靴で踊り始めた。
私は床に尻餅をついたが、唖然と彼の行動を見る事しか出来なかった。
そういえばこのカセットは、クラシックと言えどもワルツ・ワルツ・ワルツ…ワルツの連続だ。
ああ、お前はまだ覚えているんだね。
ワルツの楽譜を買いに行った少女が帰って来なかった日を。
帰って来た時、少女がもう少女では無かった事を。





カツカツと赤い靴が刻むリズム。
レトロに流れる音質の悪いクラシック・ワルツ。
耳障りな音と音の調和が、私を絶望させた。
そう、まさに、そこだけ鮮やかな血の色。
だらりとぶら下がった人形を掻き抱いて。
彼は踊り続けている。




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06.09.15