ミモザ







「暑っ…!」


仕事帰り、夜中、湿った重い空気の中。
玄関の扉を開けると、むわっとした空気が肌に触れた。
じめじめじめじめ。
梅雨。
これほど鬱陶しい季節が他にあってたまるか。
外はまだ風が吹いていて冷えた空気を感じられたが、密閉された室内は必要以上に…暑い。
私はコートを腕に掛け、リビングの扉を開いた。
瞬間、ひやりとした空気を感じる。
おかしい。
クーラーなんてめったにつけない、というか今日はつけた覚えもない。
少し疑問を抱きながら薄暗い室内、月明かりを頼りにソファにコートを放る。
鞄を机の上に置いて、溜息を吐いた時、急に後ろから身体に腕を回された。


「っ!!?」


腰を抱き寄せられ口を手で塞がれる。


「だぁ〜れだ?」


耳元で低い声で囁かれる。
くすくすとした笑い声が空気を振るわせ、耳まで届いた。
それで背筋がびくりと撓ったのが彼にも分かったのだろう。
止まらない笑いを抑えようとしているのか、その笑いは徐々に喉の奥で深くなっていった。
それにしても、いや、こんな時に言うのもアレだが―――…暑い!!
巻きついた腕を引き離そうとするが離れない。
ぴったりと密着した体のその部分は熱を帯びていて、もう。
堪えられなかった。


「…っ、暑い!!離れろぉオ!!!」
「うおっ!?」


彼の鳩尾に肘を食い込ませた。
見事にクリティカルヒットしたそれは大分効いたらしく、体がすっと開放された。
私は部屋の電気を点け、奴の前に仁王立ちした。


「こんな真夜中に何の御用かなキリコ先生?」


きっと私のコメカミはぴくぴくと震えていただろう。
彼はさっと青ざめ両手を上げて、降参の意を示した。


「うわ〜…、ご機嫌ナナメ?」
「誰の所為だ、誰の!!しかも勝手に家へ入り込んで!」


しゃがみ込んでいる彼にずんと詰め寄る。
ああ、こんな暑い時にまたムサクルシイ奴の顔を覗き込む私もどうかしている。
苦笑いをしている彼に背を向け私はキッチンへ向かった。
イライラする!蒸し暑い!!
うーん、飲むか!
スコッチにウイスキー・ワイン?
ロックで飲んだらそりゃ美味いだろうなぁ…。
にやける口元を抑えながら、私は地下のワインストックを見た。
すると見慣れないラベルの瓶が立っていた。


「ン?何だ…?」
「あ」


振り向くとしまった、という顔付きをした彼が立っていた。
そのまま数秒経ってから何事も無かったかのように腕を組み、彼は咳払いをした。


「あ〜…」


もごもごと口を動かしながら彼は言葉に詰まっていた。
頭に疑問符を浮かべながら私はその瓶を手に取ってみる。
それはシャンパンだった。
シャンパンを入れたのは彼なのだろうが、何故口篭もる必要があるのかが分からなかったので、埒が明かないので問う。


「何だ、これは」
「………」
「…キリコ?」
「『ミモザ』を」


彼はキッチンに歩いて来て、冷蔵庫から何かを取り出した。
…オレンジジュース?
それも持ってきたのか?


「知っているか、ミモザって」
「知らない…」
「じゃあ、グラス貸して。あとそのシャンパンも」


瓶を差し出すと彼はそれを受け取りリビングへすたすたと歩いていった。
私は冷蔵庫の何時も冷やしてあるワイングラスを取りだしその後へ続く。
グラス半分に彼はなみなみとオレンジジュースを注いで、此方に寄越した。


「ガキはこれで十分」
「な…っ!馬鹿にするな!!」


向きになって彼に食い掛かるとくすくすと笑われた。
我に返り私はソファに蹲る。
耳まで真っ赤になっているだろうか。
顔が熱い。
伏せ目で私はグラスを見つめていた。
彼はグラスに開けたばかりのシャンパンを勢いよく注いだ。
鮮やかに黄色がグラスに満ち溢れていく。
『ミモザ』…?
ああ、そういう事ね。


「これ、ミモザって花の色だね」
「大正解!流石!大先生!!」


にこりと笑って彼は私にグラスを差し出した。
ひんやりとしたグラスは、綺麗な黄色に染まっている。
あ、と思い私はキッチンへ駆けた。
先日何の用事だったか、只食べたかったからか。
バレンシアオレンジを買ってきていたような気がした。
それを細いくし型に切り、ワイングラスに掛かるように切り込みを入れ、彼の元へ戻った。
そっと彼と自分のグラスにオレンジを差し込む。


「雰囲気出るだろ?」
「…くっく…、さっすが…、先生だ」


彼はグラスを持ち、反対側の手を私に差し伸べた。
素直にその手を取り、私もグラスを持って立ちあがる。
クーラーのスイッチを切り、彼はテラスへと私を誘った。
月光が、彼を包み込む。
素直に綺麗で、私は見惚れた。
手に持っていたグラスを危うく落としそうになり、私は自分自身に焦った。
それに気付いたのか気づいていないのか、彼はくすりと笑い、私の額に口付けた。
夜風はやはり涼しく、気持ちが良い。
少し欠け始めた月は、何だかアンバランスで、可愛かった。
その月を見つめていると、チンと手元で音がなった。


「…乾杯」
「……、…キリコ」


何時もより彼の表情が柔らかくて、そういえば今日はよく笑うなと思った。
こくりと一口飲むと、中辛めで、美味しかった。
フルーツは元々好きで、フルーツカクテルもよく飲むが、これは初めてだった。


「美味しい…」
「これはね、世界一美味しいオレンジジュースって言われてるんだよ」
「へぇ…、知らなかった。飲んだことも無かった」
「結構有名だけどね…、まあ、先生の『初めて』が俺で良かった」
「…変な言い方するな」


静かで心地よい沈黙が、私達を包んでいた。
何口めかを口にしていると、ふいに彼の視線に気が付き、私も其方を向く。
瞳が合って、暫く見詰め合った。
彼はグラスをテラスのテーブルに置いて、私に手を伸ばした。
私も、同じような動作をして彼に手を伸ばす。
どちらともなく歩みより、互いを強く抱きしめた。


「先生、今日、疲れたでしょう?」
「ン…?」
「知っているよ。今日1日で、三つ手術やっただろう?」
「な…んで…」
「疲れた、でしょう…?」


ああ、そうか。
彼は。
そっと横目でテーブルのグラスを見る。
私の為にコレを。
そして、笑顔を。

そう思うと左胸の少し下がきゅうと締め付けられて苦しかったから、もっと彼を抱きしめた。
彼に顎をそっと持ち上げられ、キスをする。
何時もの煙草とオレンジの味が混ざって、何だが変な感じがしたけれど嫌ではなかった。
甘かった。
甘過ぎるよ、キリコ。
蕩けちまいそう。
そっと唇を放し、また抱きしめ合った。


「すぐに、眠くなるよ」
「やだ…」
「駄目だ、疲れてるなら、寝なきゃ」
「キリコ…」
「ん?」


キリコ。
やっぱり私は、どうもあんたに心底惚れてしまっているらしい。
胸に耳を当て鼓動を聞くと、心地が良いよ。
どんどん、眠くなるよ。
まだ、この温もりから離れたくないよ。


「…り、こ……」
「何?先生」
「……」
「先生…」
「…ずっと、抱きしめてて」
「―――、了解」








すうと意識が遠のいて、私は彼に身を預けた








揺らめく思考の中、唇に何かが触れた気がした















それが彼のキスだと分かっていたから




















私は幸せに満ち溢れたまま眠りについた


























ミモザの黄色に 照らされて





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06.07.05