Anniversary
「よう、ブラック・ジャック」
「……、キリコ…」
咽返る程の甘ったるい匂い。
俯いて歩いていた青年は眉を顰めて前方を見やった。
何十本もの紅に囲まれた男が青年の前に立ちはだかった。
一体何処からそんなものを持ってきたのかと呆れ返る.
高級住宅街を少し外れた先のポプラ並木道で鉢合わせた。
狙って来たのではないかと思う程のタイミング。
よくある事なのだが、兎角、居心地が悪い。
…しかし問い詰めた所で今まで一度たりともマトモな答えを聞き出せた試しが無い。
アンティークな街灯が淡い橙の光を放ち、闇の中へと進入する。
煉瓦道にうっすらと浮かぶ二つの影.
夜風に乗って流れ込む花の香りが二人を取り巻いた。
漆黒のコートに身を包んだ青年はさも訝しげに男の顔を覗き込む。
モノクロの髪と本来の肌の色とは違う皮膚が縫い合わせられた左反面の顔が、青年の正体を物語っていた。
その青年の…、ブラック・ジャックの胸元のリボンタイが静かに揺れる
共に揺れる紅い瞳に相反する蒼の瞳が映し出された。
「偶然だな」
「故意に作った必然だろう?」
「そんな!酷い事を言いますね…」
キリコと呼ばれた男はオーバーリアクションで瞳を見開き驚いてみせた。
業とらしい敬語口調に思わず青年は、眉間に刻む皺の数を増やす。
男はそんな事は気にも止めず一歩ずつ青年との距離を縮めていく。
青白く不健康気味な面持ちをした男の、左眼の視界は眼帯で遮られていた。
その常人から見た異常を限りなく常識に近づけるのは、男の風貌であろう。
肉付きの良い長身の体に薄い藤色のワイシャツ。
丁度良いゆとりを持った黒のジャケットには白のストライプが入っている。
そのジャケットの肩に落ちるのは滑るような銀髪。
首元には彼のセンスの良さを引き立てるスカーフが巻かれ、
すらりと伸びた両足には光沢がかった黒の革靴がはめられていた。
醜い部分を隠す筈の革の眼帯でさえも、彼にとっては単なるアクセサリーに過ぎないのかもしれない。
目前まで男の顔が迫ると青年は吐き捨てる様に呟いた。
「ありえない…、何でいるんだ」
「何か言ったかい」
眉がぴくりと吊り上ったが、青年は冷静そのものの外見を保ち一言ずつ言葉を区切って発言した。
「…お前は、今日、此処に、来る、必要性を、微塵も、持ち合わせていないと、私には見えるのだがね」
「そォかい、見えるだけさ」
「…」
何を言っても無駄なのだと、青年はつくづく思い知らされた。
深く溜息を吐くと男は首を傾げてくる。
「何か嫌な事でもあったのか」
「現在進行形だ」
「冗談はよしてくれよ」
「私は本気で言っている!!」
少し声を荒げて叫び、青年は男を睨み付け、眼下の道を行く落ち葉の舞を踏み潰した。
青年の声が、静寂した闇に吸い込まれていく。
男はきょとんとした顔でその視線を受け、それからふわりと微笑んだ。
その笑みがどのような感情から生まれたのかが分からず青年はたじろぐ。
紅い瞳に浮かんだ動揺を見据え、男の唇はさらに弧を描いた。
「元気そうだな」
「っ…、お、おかげさまで…?」
「おいおい、俺に聞くなよ―――…ックック……、変わらないねェ…先生」
「…おちょくっているのか、キリコ……」
からかわれた所為でほんのりと頬を染めた青年は顔を横に背けた。
それでも視界に入るのは紅の群れ。
好奇心が疼くがそれに従ってしまったら男の思うツボだろう。
一息おいて青年は一歩身を引き、男の横を通り抜けようとした。
予想外にも簡単にすり抜ける事が出来たのだが、後ろにある気配が遠ざかる事は無い。
「…用があるなら早く済ませ」
歩く歩調を緩めずに振り返りもせず、青年は男に問う。
しかし男は何も言わずに一定の距離を開け青年の後を追うだけだった。
青年は再び深い溜息を吐いた。
この近距離ストーカーをどうやって上手くあしらうか。
それにこの匂い。
…薔薇の香り。
嫌味なのか…、いや、絶対そうだ。
嫌でも初めて抱かれた時の事を思い出す。
ベッドに程よく敷き詰められた薔薇の花弁の上で。
愛し合った、とまでは言わない。
ただの気まぐれだ。
「抱きたいな」と言われたので「良いよ」と言っただけだった。
今更この男に抵抗した所で無理強いされると分かっていたし、
何よりどうでも良かったのだ。
貞操だろうがなんだろうが持っていってくれ。
それぐらい気が荒れていたのだろう。
患者が死んだ時だったか。
今思えばそういう時を狙われていたのかもしれないが、後悔したって無駄だ。
悶々とした考えを膨らませている内に、愛車の前に辿り着いた。
その車と青年の間に、すっと男が割り込んだ。
「…帰りたいのだが」
「ねえ」
「何だよ」
「これ、何で持ってるか…、知ってるの」
「知らん、退け」
「これを受け取ってくれたら」
そういって男は、薔薇の花束を青年に差し出した。
青年は躊躇したが受け取らないと後が長引くと思ったので渋々花束に手を伸ばした。
しかし伸ばした手に花束は渡されなかった。
男が手を引いたのだ。
青年は男を睨んだ。
「キリコ!…いい加減にしないと…っ」
「今日は初めて出逢って丁度一年…、つまり記念日だ。そして薔薇の花束」
「だからっ!」
「あれ…?先生…知らないのかい」
男は首を傾げた。
青年も眉を顰める。
「…何を?」
「記念日に薔薇の花束を渡されたら、その渡した人にキスをして受け取るんだ」
「は?」
「そうすると二人の仲はより一層良くなる…俺の故郷の言い伝えだ」
「此処は日本だ」
睨みをきかして青年は顎でそこを退けと命令した。
だが男は動かない。
青年の中の怒りが限界まで達した。
男の手中から薔薇の花束を無造作に奪い取り、噛み付くようなキスをする。
男は一瞬だけ瞳を見開いて、それからそのキスを堪能するかの様に瞳を細めた。
只、唇を合わせるだけの薄いキスが何秒も続いて、それが深くなる事は無かった。
ふいに青年は唇を放し、余韻の蜜を手の甲で拭った。
無表情に男を見つめながら口を開く。
「何で此処に来た?」
「今日じゃないと記念日じゃない…、ほら」
男は自分の腕に巻かれている時計を指差した。
某有名ブランドの機械仕掛けが瞳に移る。
午前0時の針は躊躇う事なく記念日の終了を示した。
「ギリギリセーフってとこかい」
「まあね」
「お前時間を気にしてただろう」
「意地悪だな…、知ってるなら素直に受け取ってくれりゃあいいのに」
「煩い」
「意地っ張り」
「ほら…もう受け取った。キスもした。帰る」
「…ああ」
男は満足そうに車の前から身を引いた。
青年が車に乗り込むのを確認して、コートを翻す。
どうしても今日じゃないと駄目だった。
一日遅れとかそんなのはポリシーに反する。
決められた限りあるその時だけの感動を無にしたくはないのだ。
一分前で受け取らなかったら哀しいが無理にキスをして受け取らせていたのだろう。
そう思うとほっとしてならない。
自分の考えを見透かされていたのだろうが、もうそんな事はどうでも良かった。
目的は果たせたのだから。
…そこに愛があろうが、無かろうが。
「キリコ」
「何だい先生」
「乗るか」
ぴたりと男の足が止まる。
滅多に無い青年の誘いに我が耳を疑った。
「…乗る」
仕事ついでに来ていた此処から近場のホテルはチェックアウト済みだし、
アタッシュケースは家に送ってもらっておいた。
全ては薔薇の花束と記念日の為に。
いそいそと今来た道を戻り、助手席に腰を掛けた。
「お前も随分ロマンチストだな」
苦笑しながら青年は車を発進させる。
程なくして夜の町の煌びやかなネオンに照らされる道へと入った。
交通量の少ない今の時間帯は伸び伸びと運転が出来る。
そんな状況に気を良くしたのか、青年の表情は心なしか柔らかかった。
「…泊まるの?」
「泊まるよ」
「やるの?」
「…、…」
「?…キリコ?」
男は少し黙してから、静かに口を開いた。
「お前が嫌なら、やらない」
青年はくらりと眩暈がした。
何でこの男は時々これでもかって程優しくなるのだろう。
そのギャップが堪らなく心を惹きつける。
「ばーか…、こういう時くらい、強情な方が良いんだよ」
「…そんなもんか?」
「そんなもんさ」
変に弱気な男が可愛くて仕方が無かった。
そうだ、その時はベッドにこの薔薇の花弁を敷き詰めてやろう。
だってあの時嫌ではなかった。
それは少なからずや男に好意を持っていたからに違いない。
今更それを認めるのは何とも気恥ずかしい事なのだが。
青年はアクセルに込める力を強めた。
エンジンが増して唸りを上げ、車はネオンの中を走り抜けていった。
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06.09.05