彼の家の彼女が死んだ









「ピノコは死んだよ」




事故死だと聞いたが詳しい事はよく知らない。
何となくかけた電話の彼の第一声がそれだった。
買い物帰りにタクシーを拾おうと大通りの向こうに渡る時
歩行者信号が青なのにデコトラが突っ込んできたと言う。
まあそんなトラックの運転手やらは昼夜問わず走り続けるため睡眠不足も多いかもしれない。
しかし前方不注意などで人を跳ね飛ばして許されるわけはないのだ。


その事を電話で聞いてから一週間程経って、私は彼の家に向かう事にした。
時刻は11時か。霧が濃く視界は至極悪い。
夕立の所為で、じっとりと湿った空気が漂い、それは冷え切っていた。
ハーレーを飛ばしながら身震いをする。
咥え煙草を吐き捨てメットを締めた。
風が強い上にこの冷気。
この速度はさすがに辛い。
だがしかし、私は彼の家にどうしても行きたかった。


2時間程度ハーレーを飛ばすと彼の家に着いた。
しかし部屋の灯かりは点いていない。
しまった。出張中だろうか。
そう思ったが何故かそのまま諦められなかった。
あの電話以来、嫌な予感が私の胸の中に渦巻いているからだ。


ハーレーを降り、ドアをノックする。
乾いた音が2回鳴って、また元の静寂が訪れる。
潮が満ちている。波音が近い。
轟々と唸る風が髪を乱した。
香る潮にふと、以前の事を思い出す。




時は昼間。秋の正午。
ティータイムを見計らって彼の家に行くと案の定、
彼と彼女はシフォンケーキを食べながら話に花を咲かせていた。
そして机にはもう一人分のティーセット。


「どうせ来ると思っていたんだ…なあ、ピノコ?」
「そうなのよさ!おじちゃんは何時も少し曇った涼しい日に来るんらよね!」


にっこりと笑って出迎えてくれる二人。
それは私の中で欠けていた、癒しか、温もりか。
まるで家族のような。
だから私は彼の家をよく訪れた。
患者を看取った後は特に、夜中に訪問した。
夜中に私が来る時がどういう時なのかを知っている彼は、
玄関を開いた瞬間に抱きしめてくれる。
それが嬉しくて私は、よく彼の家を訪れた。
私の心を支えてくれる彼の支えがあの少女だという事を私は知っている。
だからこそ不安だった。
あれから彼がどうしているのか。
彼女がいなくなったら彼は一体どうなってしまうのか。


6回目のノック。しかし灯かりは点かない。
やはり彼は外出中なのだろうか。
溜息を吐き、玄関から足を一歩引くと急にドアが開いた。
見やるとそこには哀しげな瞳で私を見上げる彼がいた。


「…キリコ」
「ブラック・ジャック…」


声に元気は無い。


「部屋、真っ暗じゃないか…どうしたんだ?」
「…、…明るい所は、駄目だ」
「…」
「明るい所にいると、ピノコを思い出す」


彼女の笑い声が聞こえてきそうなんだ。


彼が力無く微笑む。
痛々しい笑みは見ているだけで辛かった。
思わず彼を抱き締める。
もう見ていられなかった。
その声で、その瞳で、笑い掛けられて。
どうすればいい。


「こんな所でもあれだ…上がれよ、キリコ」
「…」


私の首元に顔を埋めた彼が促す。
腕の力を緩めて、私は彼の肩を抱きながら家に入った。

暗かった。
小さいスタンドがぽつりと、部屋の中央で光を放っているだけである。
リビングの椅子に腰を掛けようとする彼を静止し、寝室に連れていく。
彼をベッドに座らせ部屋の電気を点けた。


「っ…点けるな!!」


直後に彼の叫び声が響く。


「スタンドでいいっ…」
「…すまない」


電気を消しベッド脇のスタンドを点ける。
彼の目尻には涙が浮かんでいた。
重症だな。
これ程までに彼の中での彼女の存在が大きかったなんて。
布団を握り締め震える彼を抱きしめた。


「ブラック・ジャック…顔を上げてくれ」


頬に手を当て顔を上に向ける。
私は言葉を失った。
彼の瞳には
何も映っていないのだ。
今感情的になったのは明るみに出たための条件反射か。
彼の瞳には感情という物が全く無かった。
まるで死人のような。


「なあ…ブラック・ジャック」
「何…」
「頼むよ」
「何が…?」
「お前のその瞳に俺を映してくれ…」


その瞳にはもう何も映らないのだろうか。
彼女以外の何も。
私では駄目なのだろうか。
支え合う事は出来ないのだろうか。
あの笑顔はもう戻らないのだろうか。


「ブラック・ジャック…お前今、心から、笑えないだろう…?」
「…、…そうだね…」




こう、思う。
例えば今此拠で彼を抱き締めて慰めたところで
明日の彼の何になるのだろうか。
抉られた思い出の代償は一体何なのか。
私何かじゃ到底足りないだろう。

でも私は彼を抱き締める。温もりを与える。
彼がそうしてくれたように。
だって他に何をすればいい。
同情なんて与えやしない。
そんな物は存在すらしない。






ただ確かに存在する物は













彼の家の彼女が死んだ














という事実だった









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05.11.17