ドクター・モーツァルト
深夜2時。
一ヶ月程前から受け持つことになった患者の手術を明日に控えた私は、手術の手順と患者の意思を確認する為市内の病院へ向かった。
暫く続けた薬の投与の効果も無く、手術に踏み切るしかなかったのだ。
成功率が高い手術とは言えないが、とにかく出来る限り手は尽くしてみることにした。
しかし駐車場に車を止め、病院の内部に入ろうとすると見なれたハーレーがある事に気付く。
一気に背筋に悪寒が走った。
私はすぐに患者である彼女の部屋の灯かりが点いているかを見た。
あまり都会のネオンが当たらないこの場所では、部屋の中で一番小さい電灯が付けられている事にも容易に気付くことができる。
そして、彼女の部屋には、橙色の小さな灯かりが灯っていた。
ヤメテクレ
そう願いながら私は彼女の部屋に急いだ。
だがそんな願いも虚しく
私が彼女の部屋で目撃したのは
もう息の無い彼女と、その傍で彼女の手を擦る彼だった。
「ドクター・キリコ……」
掠れた声で彼の名を呼ぶ。
彼はゆっくり振り向き、こんばんは、と言った。
息が出来なかった。
怒りよりも哀しみが心から溢れ出て来た。
私は無言で彼女のベッドに近づいた。
少し青白い顔。
艶やかに伸びる黒髪。
伏せられた長い睫毛。
組まされた両手。
全てが死というものに装飾され、全く生気を感じられなかった。
けれど、美しかった。
「何で、殺した、、、?」
我慢できずに彼女の両手を握る。
まだ残る体温がゆっくりと消えて逝くのが分かるようだった。
「…治っても、誰も待っていてくれる方がいないからだそうです。治っても生きる価値は見出せないと…。逝き様はとても良い顔をされていますがね…」
そう言いながら彼は彼女の最期を語り始めた。
「私が此処へ来たのが…夜中の1時くらいですかね。その時彼女は苦しそうな息遣いをしていました」
そして安楽死の装置に組み込まれているテープレコーダーを回し始めた。
流れ始めたのは、とても静かで心が落ち着くような曲だった。
これはモーツァルト作曲だという。
「私がベッドの脇に来ると彼女はにっこり微笑んだ…。このモーツァルトの曲を聴きながら生涯を終えました。そして最期に、ブラックジャック先生に有難うと伝えてくれと頼まれました」
ゆっくりとしたメロディなのに、それが頭の中を掻き乱していく。
そんな過程などどうでも良かった。ただ、哀しかったのだ。
「…彼女は、私の母親にそっくりだったんだよ、キリコ、、、、」
整った顔立ち。
繊細な表情。
回診に来る度笑ってくれる貴方が好きでした。
もう二度と戻らない過去を、葬り去った筈のあの幸せの日々を、そっと思い出させる笑顔だった。
最後の回診の日、母親に似ていると話したら貴方は笑ってくれたじゃない。
だからこそ、必ず助けるつもりだった。
こんな事にならなければ。
ねえ、何故私じゃなくて彼を選んだの。
「それはそれは、、、さぞかし心を痛まされたでしょうに、、、、」
感情移入をしていないバリトンで彼は答える。
そして鞄の中からバイオリンを取り出した。
「さぁ、奏でてさし上げましょう。死に逝く者への美しき輪舞曲を…」
流れていたモーツァルトを止め、彼は軽く調律をし直したバイオリンをそっと肩口に当てた。
私は息を呑んだ。
その一瞬の静止状態は、今現在この世の中で一番美しい絵となっているだろう。
それ程までに美しく、それ程までに心が奪われた。
カーテンからさし込む月光を浴びて、彼は一際美しく彩られた。
奏で始められた曲は彼作曲のものであろう。
今の彼同様、とても繊細な音使いで、彼の指の動きに合わせて奏でられていく。
霊安室と化した病室から聞こえるのは、美しき輪舞曲。
それに寄り添う貴方はとても綺麗でした。
死神の奏でる曲に合わせて、二度と此処には戻って来れない何処かへ行ってしまう貴方。
この一週間は、まるで今となっては幻想のように感じられる一時の母親との再開だったのかもしれない。
おかあさん。
私は今、貴方と共にいるのでしょうか。
一通り曲を弾き終わると彼は帰る支度を始めた。
バイオリンを丁寧にしまい、装置を手に持つ。
「さて、私の用事は済みました。。。貴方は帰らないのですか?」
白々しく放心状態の私に声をかける。
ただ哀しかった。
あまりにも儚過ぎた貴方との再開が走馬灯のように頭のなかでスパークする。
貴方と会えて嬉しかった。
ただあまりにも哀しい別れだった。
哀し過ぎた。
返答をしない私に気付いたのか彼が私に近づく。
そしてそっと頬に振れた。
「…泣かないでください」
そう言われて初めて生暖かい液体が頬を伝っている事に気が付いた。
何が哀しい。
何が再開。
全て幻だ。
貴方はもう、ずっと前に死んでしまったのだから。
しかし気付いてしまうと涙を止めることができなかった。
唇をかみ締め、嗚咽を噛み殺しながらその場に立ち尽くす。
心が壊れそうだった。
涙が熱かった。
すると彼は、私の頭を自分の首元に埋めるよう抱きしめた。
「…さあ、もう夜が明けます。行きましょう」
彼はそう言いながら私を放し、病室を出ようとドアに向かった。
その時私は確実に、意思を持って、彼の背中に抱き付いた。
背中に額をこつりと当てる。
そして彼の動きが止まった。
「どうしましたか…?」
振り向かず問い掛けるのは優しくて哀しい彼。
今一番傷ついているのは彼方なのだろう。
でもね。
私も胸が抉られた。
「なあ頼むよ。心が痛い、苦しい、熱い。狂っちまってんだ。あんたもそうだろう…?」
「…」
「壊れそうなんだ。何時もお前の所為だ。お前が…、お前が壊す・・・・・・」
取り乱しているのを承知で話し続ける。
話していなければそれこそ壊れそうだった。
そう、私のためだけに
この哀れな私だけのために
醜くて強欲な私のために
愚かで臆病な私のために
奏でてはくれないだろうか
「頼むよドクター、あんただけなんだ、、、」
彼方だけ、私の心を動かす
彼方の言葉だけ、私の心に深く刺さる
彼方の行動だけ、私の心は酷く抉られる
お願いだ
何処までも深く落ちて逝きたいんだ
漆黒の闇に溶け込みたいんだ
哀しみなんかいらないんだ
感情なんていらないんだ
完全に壊れたいんだ
壊されたいんだ
もう、彼方だけなんだ
「…なあ、ドクター・モーツァルト」
だから
哀しき狂奏者よ
地獄への輪舞曲を奏でてくれ
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05.10.20