人はそれを愛と呼ぶ








先日、市内の病院で彼に会った。
何をしに来たか何ていうのは一目瞭然で、私は彼に罵声を浴びせた。
何時もの様に彼は私の声が聞こえないかのように私を見向きもしないで横を通り過ぎていく。
人殺しをされては堪らないと振り向きざまに彼が肩から掛けているコートの端を掴んだ。
その少しの抵抗を感じたのか彼はゆっくりと振りかえった。


「キリコ…何をしに行く」
「聞くまでもないだろう」
「許さない」
「別にお前の許可がいるわけでもあるまい?」
「っ…黙れ!」


コートから手を放し彼の胸倉を掴む。
必死に睨み付けているのにも関わらず、彼はその怒りに対して何の感情も無い瞳で返した。


「人殺しなんてやめろ!」


誰もいない夜中の病院の廊下に声が響く。
彼の行為を否定する、最も酷な言葉を吐き捨てた。
すると彼の眉がぴくりと上がった。


「その言い方はやめろと…何時も言っているだろう!!」


直後私は彼に胸倉を掴み上げられて廊下に叩き付けられた。
突然の事過ぎて受身をする暇も無く、私は頭から床に落ちた。


「っ…う」


側頭部が酷く痛んだ。
手を添えて見ると生暖かい液体が手に付着する感触が伝わってくる。
少し頭が切れたのだろう。
そんな事はどうでも良かった。
とにかく彼の行く手を阻み、挙句彼の行為を止めさせるという事が私の頭の中を支配していた。
再び彼と対峙する為くらくらとする頭を擡げ、ふらりと立ち上がる。


「行か、せんぞ…キリコ」
「黙れよ…くっく…」


しかし彼はこの状況には不釣合いな表情を彼は顔に張り付けていた。
喉の奥底から響き渡る低い笑い声に、私は意味が分からなくなった。


「何が可笑しい…!」


ぎっと睨み付けると彼はそっと私に耳打ちをした。


「本当は俺に患者を殺してほしいくせに」



ウソだ。



「この、偽善者」



そんな事は。



「…っそんなの、」
「図星だろう?」
「っ…」
「もがき苦しむ患者を、自分でももう手の付けられない患者を、安らかに死なせてくれる俺に」


「本当は感謝したい気持ちで一杯なんだろう?」


何故だろう。
そんなのは思いあがりだ、と言えば良かったのに。
私の口からは
何の言葉も発す事が出来なかった。
立ち尽くしている私を他所に、彼は患者のいる部屋へ消えていった。





私は彼が部屋から出てくる前にその場を後にした。
勿論、廊下にこびり付いた血痕を拭き取って。
家に着いた瞬間に寝室に飛び込んで、泣いた。
ベッドに血が滲んだ。
先刻の彼の言葉を否定出来なかった自分に。
少しでも彼の行為を認めてしまった自分に。
彼を止める事が出来なかった自分に。
酷く、腹が立った。

彼に二度と逢いたくないと思った。
二度と逢わないと誓った。
逢ったとしても無視を決め込み、彼を受け付けない事にした。
あれ以上彼に何か、自分の盲点…いや自分の奥深くまで遠慮無しに入ってくる言葉を聞きたくなかった。

孤独に溺れたかった。
他人との交流などいらない。
ましてや、あんな奴と。
なのに皮肉にも翌日の夕方、彼は私の家を訪ねてきた。


耳障りなハーレーな音を聞いた瞬間、ダイニングにいた私は寝室に飛び込んだ。
逢いたくなかったし声すら聞きたくなかった。
彼の言葉が頭の中にわんわんと響いて自分の信念を忘れそうになる。
人殺しに感謝なんて、アリエナイ。
アリエナイ…

ドアをノックする音が聞こえたが私は寝室から出なかった。
ベッドに潜り込み、布団を被って彼が立ち去るのを待った。
知らず、体が震えている事に気が付く。
昨日の頭の傷がズキズキと痛む。
何故彼に脅える必要があるのだろうか。
自分の中で彼に共感する部分を見透かされない為か。
それとも、彼の存在自身に脅えているのだろうか。
平気で人を殺している彼に。
共感する部分があるのかもしれないがそれは有り得てはならない事であるし、
人を殺す事に何も罪悪感を持たない彼が信じられない。

ひたすらノックが止むのを待った。
それは私にとって至極長い辛い時間だった。
諦めたのか、暫く経つとノックが止んだ。しかしハーレーを出す音は聞こえない。
きっとまだ家の周りをうろついているのだ。

誰が、出るものか。

鼓動が早い。
自分の息遣いが耳に届く。
ハーレーの音が、聞こえるまでは油断がならない。
ところが3時間程経ったのにも関わらず一向にエンジン音は聞こえなかった。
何故だ?


私はまだ少し震えている体を起こし、寝室を出て玄関へ向かった。
窓越しに外を見ると、ハーレーはまだある。
彼は一体どうしたのだろう。

私はそっとドアノブに手を掛け、ゆっくりとドアを開けた。
すると、ドアのすぐ横に彼が壁に背を預けて座り込んでいた。


「っ…キリ、コ、、、?」


ドアを開けても起きる気配の無い彼に恐る恐る声を掛ける。
しかし彼の瞼はぴくりとも動かなかった。
仕様が無いので肩を揺すってやると、だらりと投げ出されていた彼の右手が勢い良く私の手を捕らえた。


「っ…な」
「やあ、、、ブラック・ジャック先生」


掠れた声。
見上げられた虚ろな片目。
私の手を掴んだままの右手。


「家に、入れてくれ…」


するりと手が開放された。そして彼の右手は再び力無く地面に落ちる。


こんな弱々しい彼を見るのは初めての事で、
先刻まで頭に浮かんでいた彼への拒絶行動は実行されなかった。
何時もは無表情で冷酷を彩っている瞳は、明らかに同様の色を含ませていた。
のろりと立ち上がった彼が、低く項垂れる。
そして私に覆い被さってきた。
彼の全体重を支えるのは、体格的に考えても不可能で、私はそのまま後ろに倒れ込んだ。


「馬鹿…重いっ…」


抗議の声を上げるが、彼は動かなかった。
抵抗も出来ず、私は彼の気まぐれが早く過ぎ去る事を願うだけにした。


「…もっと、何時もみたいに、罵れよ」
「な…」
「ヒトゴロシとか、言えよ…」


何を馬鹿な事を言っているんだと思ったが、至近距離の彼の瞳はそれを求めていた、から。


「…人殺し」
「もっと」
「人殺し」
「もっと」
「お前はヒトゴロシの、最低野郎だ」
「もっと」
「…、…大嫌いだ」
「……そう」


何を思ったのか、彼はにこりと笑った。


「俺は好きだ」


耳元で囁かれたその言葉は、心の奥底にまで響き渡った。


「大好きだよ」
「…っ、…」


横になったままぎゅっと抱き締められる。
彼の温もりが服越しにとくりと伝わった。
こんな優しい人の温もりに触れたのは一体何時だっただろうか。





ライバルという肩書きでも良かった。
ただ彼と肩を並べる事が出来るポジションにいたかった。
時に協力し、時に罵り合う仲でも良かった。
「偽善者」といわれた時、すごく胸が苦しくなって心が不安定に揺れた。
それはきっと、嫌われたくなかったから。
廊下に叩きつけられた時はさすがに絶望した。だが、そのまま彼を行かせる事を信念が許さなかった。
彼の前に立ち塞がり彼を止めようとしたが、それを囁かれ再び絶望した。
逢わなければ忘れられると思ったのに、憎しみという感情だけを偶像的にでも膨らませたら嫌いになれると思ったのに。
こんな事をされては。
下らない事を考えていた私が一層馬鹿に思えて。


「あんたさ、何でそんなに元気ないの」
「ん…、昨日は悪い事したなぁって思って、眠れなかった」
「…は?」
「だから、昨日お前を床に叩き付けた時、血が出てただろ?」
「ああ…アレ?」
「嫌われただろうな〜って、眠れなかった。悪かったよ」


元気の無い声で彼はぼそりと謝罪した。


「可愛い子程虐めたくなるってあるだろ?…昨日は言動も少し酷かった。だが勘違いをしないでほしかったんだ」
「…」
「苦しんでいる者に安楽な死を施す事を…それを心から喜ばしい事だとは思わん。出来るなら助けたいさ…」
「キリコ・・・」
「…悪い。重いよな」


そう言って彼は立ち上がり私に手を差し伸べた。
私は素直にその手を受け取り立ち上がった。
そして私達は繋がった手を放さなかった。


「なあ…」
「何?」
「これってさ、両思い?」
「…っ!?」
「だって、お前俺が告白した時、嫌な顔しなかったぜ?」


にやりと笑って彼は開いてる方の手で私の腰に手を回した。
…やっぱりこいつは鬼畜だ。
先刻までの弱々しさが嘘のようだ。
そして私の頭の霧も嘘のように無くなっていた。


「…嫌いだよ、キリコ」
「え?」
「大嫌いだよ」
「顔が笑ってるぞ、嘘吐き」


くすくすと笑いが漏れる。
すると彼も連鎖的に笑い始めた。



このくすぐったさは何と言うのだろう。
長年在る事すら忘れていた、この優しい温もりを。
人は何と言っただろう。






この感覚を









愛、と言うのだろうか







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05.12.18