Trick or trick







「Trick or treat」
「…いい年して何言ってるんだ馬鹿」


10月最後の日といえばハロウィンという外国から伝わってきた行事がある。
子供がお化けの格好をして大人達の所にお菓子を貰いに行くという
一風変わった行事だ。
何故そのような行事なのかは知らないが、まあ、一年に一度ぐらいはそんなおふざけも許されるだろう。
子供ならば。


「お菓子をくれないと悪戯するぜ」
「アホかお前は…、ああ。アホだったな、すまん」
「酷いな」
「悪いが俺は忙しいんだ。帰るか?」
「帰らない」


大の大人が何を言っているのか。
玄関越しに私と彼は対峙していた。
午後9時の訪問者である。失礼極まりない。
可愛い子供だから許される行事をこんな不健康そうな死神の所為で台無しにしないでほしい。
私が帰宅を促すと彼はずいと部屋に上がり込んだ。

リビングで明日の術式の調べ物をしていた私は、何も出さないのはさすがに失礼だろうと
キッチンにコーヒーを淹れに向かった。
彼はテレビの前のソファにどかりと腰を下ろし、深々と沈んだ。
以前彼が家に来た時、自分はコーヒーの豆から淹れると聞き
興味を持って買って来た手挽きのミルで豆を挽く。
無駄によく家に来る彼は自分の愛用のコーヒー豆を買って来て
私の家に置いていく事がある。
確かにその銘柄は美味くて、私もよく口にする物だった。

コーヒーの粉末をフィルタに入れてお湯を注ぐ。
そうだ。
この香りだ。
彼が来た日の私の家には程良い渋みを含んだ香りが充満する。

濃いめに淹れたコーヒーを二つのカップに分け、私はソファに向かった。
机にことり、とカップを置くと同時に彼は伏せていた瞳を上げる。
彼の片目に私が映った。


「まったく…毎度毎度。一体何しに来るんだ。暇だろう?」
「あんたに逢いに来てるだけだよ」


私から瞳を逸らすと、両手でカップを掴み彼は静かにコーヒーを啜った。
私はもうよいだろうと机に戻ろうとしたが、その時電話のベルが鳴り響いた。
通り過ぎ際の電話から受話器を片手で取り上げ応対する。


「はい、もしもし」
『お?間?ハッピーハロウィン!!』
「辰巳…!?久しぶりだなぁ…」


受話器の向こうから聞こえたのは、大学時代同期だった辰巳の声だった。
久しぶりの辰巳の声に夜遅くの電話にも関わらず思わず声が明るくなる。
彼とは随分長い間会っていなかった。
ごく偶に手術を手伝ったりする事もあったが、それも数十ヶ月前の話だ。


「何だ?まーた手術の相談か?」
『…やっぱり分かる?』
「お前なぁ…もう何年付き合ってると思っているんだ」
『ははっ…それもそうだなっ!』


けらけらと他愛も無い話をした後、本題の手術の話しになり、
ここ一週間の手術予定を淡々と述べたら暫くに後に予定を立ててくれた。
肉腫の一件から勤務先を移動した辰巳は、今は平和な病院に勤めているという。
そんな嬉しい話を最後に、私は受話器を置いた。
久しぶりの友との会話に知らずとも笑みがこぼれる。
私は鼻歌を歌いながら今度こそ机に戻った。
まずは明日の手術だ。
浮かれている場合ではない。
私は辰巳の事を頭から振り払い、黙々と作業を始めた。








気が付くともう12時近くだった。
軽く伸びをするだけで腰の骨がぺきぺきと音を鳴らす。
明日の手術が早朝でないのが幸いだった。
今日入った急な手術が明朝の早朝なんて堪ったもんじゃない。
風呂に入って腰の疲れを取りつつ、術式を頭の中で思い浮かべる。
そんな私の中でのサイクルを胸に席を立った。

そういえば、キリコの事を忘れていたな。。。
もう寝ているだろうか。
まぁいい。どうせ何時もと同じでソファで眠りこけているだろう。
後でブランケットを掛けてやればいいだけの話しだ。
そう思った私は彼を見向きもしないでリビングを出ようとした、が。


「待てよ」
「っ!」


ソファの前を通り過ぎた所で急に後ろに手を引かれた。
ぐん、と勢いがあまりにも良かったため、私は重心を失った。
そのままソファに座っていた彼の膝の上に倒れ込む。


「わ、あ…っ」
「Trick or treat」
「…は?」


突拍子も無い言葉に気の抜けた声が出た。
何だこいつは。まだハロウィンを引き摺っているのか。
そういえば玄関で顔を合わせた瞬間にも言われたが、
いい加減子供じゃないのだし諦めているとばかりに思っていたが。


「お菓子なんて持ってない…コーヒー出してやったろう?それで充分だ」


私はすっと立ちあがり、リビングから廊下へ繋がる扉のドアノブへと手を掛けた。
だがまたもや私の行動は彼に阻止される。
今度は体を右腕で抱え込まれ、左手で口元を覆われる。


「…っ!?」
「電話超しのさァ…辰巳?って奴とは随分対応が違うじゃん」
「ウ…」
「何ソレ。はっきり言ってムカツク」
「な…に」


普段は感情を決して口に出さない彼が今日に限って口がよく回る。
何を言っている?
辰巳と対応が違う?
当たり前じゃないか。
だって私は。


「Trick or trick…」
「…?」
「あんたにはもう『悪戯』しか選択肢は残ってない」
「な…!?」


そう言うと彼は口元を覆っていた手を私の首に持っていき顎を上に勢いよく傾けた。
右腕を体から離し、そのまま私の右肩のワイシャツをぐいと下げる。
その所為で私の右の首元は完全に露出した。


「何するっ…」
「悪戯も兼ねてお仕置き」


するとあろう事か、彼は私の露出された首元に噛み付いた。
ふざける程度では無い。
ぎりりと犬歯が突き刺さるのが分かった。
何か抵抗をしようと頭の中で行動を考えようとしたが
痛みのあまり何も考えられなかった。


「痛…ァ!!っ…やめ、ろ!」


目尻に涙が浮かんだ。
ぎちぎちと締まる彼の顎が、突き刺さる犬歯が
私を混乱させた。
何度痛いと訴えてもやめる気配は無い。
しかし何も出来なくて、私はただ彼の思うがままに突っ立っていた。




するとぶちりと
肉の切れる音がした




「ぐぅっ、ア…!!」




彼が噛み付いていた部分が増して熱を帯びる。
切れたのか。
血が垂れるのが感覚で分かる。
驚きと痛みのあまり体がびくびくと震えた。
足もがくがくと震え今にもその場に崩れ落ちそうだった。
それを見計らってか彼は私の体から離れる。
私は両手で右の首元を抑えながら、その場に崩れた。





「ウ…ぁ…っ」
「あいつに向けるその笑顔を俺にくれ」
「…っア」





「それだけでいいんだ…」







ただ痛くて。
必死に首元を抑えたけれど、なかなか血は止まらなかった。
歯を食いしばって痛みに耐えていると、腰を屈めた彼が私の手を退け、傷口を舐め始めた。
何時もだったら振り払うが、振り払う理由が見つからなかった。






笑顔だって?
何を言っているんだ、馬鹿。
私はあんたにそんな真似は出来ない。
だって私は。







「―――っ」







その言葉の続きを口にしようとしたが、ハロウィンの終わりを告げる鐘が鳴ったから












悪戯なんかではないその言葉を









呑み込んだ









Text Top
05.10.31