絶望玩具
AM3:00。手術終了。
足早に手術室を後にし、私は駐車場へと向かう。
真夜中の手術。
完璧だ。ぬかりは無い。
知らずのうちに顔がにやける。
私の術式を目の当たりにして呆ける医師、看護婦達。
術式後の止まない拍手。
満足感が心溢れる。
いや、満足なんかじゃない。
私が欲しいのはたった一瞬の達成感。
その一瞬が終われはまた全ては無に返る。
私は全てをゼロから始める。
それは患者は一人一人が違うからだ。
仕様が無いのだ。
こつこつと靴音が響き渡る夜中の地下。
少し湿った空気がコートを翻す。
これから雨が降るのだろうか。
視界が悪くなるまでに家に着きたいものだ。
しかし私は車の寸でで立ち止まる。
車の前に人影があったからだ。
月明かりも何も一切の光が遮断された地下は足元に点々と灯っている
小さい蛍光灯だけが頼りだった。
訝しげに瞳を細め、影を見据える。
その影は、私が来たことに驚いた様子もなくボンネットに腰掛けていた体を持ち上げた。
驚くわけないか。こいつは此所で私を待ち伏せていたのだから。
沈黙が続く。
その間にも地下に流れ込んでくる風は、生暖かくより湿気を含んだものとなった。
この天気でこの夜道は視界が開けないと危ない。
私はふぅと溜息を吐き芝居をやめた。
「キリコ、そこを退け」
「なぁんだ、先生分かってたの」
私が目の前の影が誰だが知っていたという事すらも見抜いていたように彼は話す。
「こんな遅くまでゴクロウサマ…、さっすが天才外科医」
「…俺はお前の冗談に付き合っていられる程体力が残っちゃいないんだ」
「ほう…」
また殺しでもしたのだろうか。
彼の傍らには銀色のアタッシュケースが置いてあった。
胸糞悪い。
「さあ、そこを退いてくれ」
「…ねぇセンセ?」
彼をドアの前から押し退けようと左手で軽く押す。
しかしぴくりとも動かない。
そのどころか、彼は私の左手を掴み自身に引き寄せた。
そして耳元に囁くように問う。
「…おい」
「先刻言った事って本当?」
「何が?」
「体力が残ってないって事」
彼の求めている最終形の答えが分からなかった。
本当は今すぐにでも帰りたいのだが、どうにもその問いに答えない限り
彼は左手を放してくれそうにない。
体力が無いのは本当だ。
徹夜というものはそういう物である。
どんなに自身に点滴を打とうがどんなにコカインを摂取しようが
人間の生活のサイクルに逆らっているのだから辛いに変わりは無い。
特に手術なんて神経を使うような物事は精神を削り取るような苦痛だ。
しかし適当にやっていいものでは決してない。
だから精神を削って体力を減らして
私は全身全霊で患者を救う事に専念するのだ。
「ああ…、今すぐにでもベッドに埋もれたいくらいだ…」
「そう。じゃベッド行こう」
答えを返した瞬間に私は抱き上げられた。
すたすたと彼は私の車の横を通り抜け何処かへ向かって歩き始める。
始めのうちは何が起こったのかが分からなかったが、すぐに抵抗した。
「ベッドって…、お前!!」
「抱きたいんだ、抱かせてよ」
「だからっ…そんな体力無いって…」
「だったら抵抗するのやめたら?その体力こそ無駄だよ」
「っ…」
「どうせ抱かれるんだから」
その彼の最後の一言が、何故か私の心の酷く突き刺さった。
かっと体が熱くなり、怒りが体に満ちてくるのが分かる。
ふざけるな。
俺は疲れているんだ。
ふざけるな。
俺はお前の玩具じゃない。
欲しい時にだけ強引に奪って、飽きたらポイか。
ふざけるな。
人を殺した後に私を抱くな。
「放せ!!」
「っ!」
彼の頬をこの体勢から出せるありったけの力を込めて叩いた。
予想していなかったのか、彼の体が大きく揺らぐ。
その隙に私は彼の腕からするりと逃げた。
彼と瞳が合う。
ああ、嫌だなぁ。この瞳。
何かを失った後のこの瞳で
私を見ないで欲しい。
その色の無い瞳で。
哀しみだけを宿した瞳で。
だったらなんで安楽死医をやめないんだ馬鹿。
いても立ってもいられなくなり私は、自分の車のある方向へ駆けた。
車に乗ればこっちのものだ。
そう思った。
だけど横からずいと彼の腕が伸びて私の体に巻きついた。
「!!」
「抱かせろ、ブラックジャック」
「放せっ…」
「抱かせろ」
「っ…、!!」
抵抗の意味を含む言葉を発すればぎちりと腕が締まる。
「や…」
「このまま締め殺しちゃうよ」
「っ!!」
「いいの?」
ああ、完全に負けだ。
体力の有無を確認したのは、私が素直にOKしないことを承知の上でか。
何処までも計算で成り立つ男だ。
私が手術を終え出てくるものも計算済みだったのか。
それは死神の勘だろうか。
そんな思考を他所に、体はぎちぎちと締まっていくばかりだった。
答えなければ。
本当に殺される。
「っ…抱、け、、、」
「…」
「抱けばいいだろ、この、ヒトゴロシっ」
どうしても憎まれ口でしか彼を相手に出来ない。
それは私が彼を認めていないからか。
それとも
全てにおいて彼に対して負けを認めるのが嫌だからだろうか。
いいんだ。
抱かれれば済む。
こんな悩みも吹っ飛ぶ。
欲しくない快楽を得る。
それは何処までも虚しい行為。
何処までも哀しい現実。
無駄な時間。
無駄な関係。
「…最初からそれだけ素直ならいいのにね」
「ウ…っ」
体を急に開放され、彼に体重を支えられていたに近い状態でいた私の体は急な重力に耐えきれず
地面に吸い寄せられた。
乱暴に抱き起こされ、私の車の傍まで引き摺られるようにして歩く。
胸ポケットから鍵を掏り取られ、後部座席に放り投げられた。
体を折って咳き込む私に見向きもしないで、ドライバーシートに彼は座る。
ふいに彼が口を開く。
「俺はね…」
「…?」
「手術後のお前を抱くのが好きなんだよ」
「っ…に、言って…」
「命を助けた後に命を奪う奴に抱かれるあんたは心底色っぽい」
彼は喉で笑いながら車を出した。
何を馬鹿な事を。
だからあんたは決まって手術後の私の目の前に現れるのか。
ああ、負けだ。
大負けだ。
敵わないよ死神。
自分でも気付いていた。
術後にアタッシュケースを持った彼に逢うのは至極嫌だった。
今やってきた事が全て無駄のような気がしてならなかった。
彼に会って生まれる胸糞悪さも。
あの瞳も。
全てが私を否定しているようで嫌だった。
全てが絶望的に砕け去るようだった。
そうか
彼は
絶望している私を抱くのが好みなのか
果てしなく皮肉な死神
私はその死神の玩具
なんと虚しいことか
「うっ…ゥ、あ…っ」
「あれ?先生、泣いてるの」
「く…ぅっ、ふ、…」
「じゃ、丹念に慰めてあげなきゃね」
車のスピードがぐんと上がる。
一体今日は何処でヤるのだろうか。
何時までヤるのだろうか。
早く終わって欲しい
全ての悪夢から開放されたい
この死神から
開放されたい
一刻も
早く
全てを失いたい
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05.11.03