No go back
病んだ心は腐敗するのも容易く、そして締めつけられ。
無力な私は成す術も無く。
抜け殻の死体を見つめるだけ。
…死体と化してはいないの、それは只の肉塊。
「……久しぶり」
返答はない。
可哀想な貴方。
何も映っていない濁った瞳は、私に向いているのに。
どんな錯覚をしろっていうのだ。
手を差し伸べたらとってくれるか。
潮の音が煩いね。
貴方の耳には届いていないのだろうが。
私はそっと彼の右手を取り、手の甲に口付けた。
反射的に、ぴくりと彼の手は反応を示したが、それっきり。
椅子に座ったままの彼は、まるで人形。
いや、ガラクタだ。
無造作に置かれた玩具。
昔は、皆に愛されていたのにね。
もう用済み?
そんなの、一体誰が決めるんだ。
そっと彼を抱き締めても、その腕は私を抱き返さない。
顎を傾け口付けても、その舌は絡められない。
頬を撫ぜる私の指の体温が、貴方には伝わっていないのかもしれない。
欠落しすぎた、貴方。
散々今まで荒稼ぎしてきたから、生活には困っていないだろう?
…いや、そんな事もないか。
無反応・無感情な彼を抱き上げ、寝室へ向かう。
だってもう、これ以上何をすればいいのか分からなかった。
独りでは生きられない。
例えば、その理由は…、何だって良いだろう。
心を焼き尽くす、全てを見失えた恋に焦がれていたのに。
貴方は、全てを使い切ってしまったのだろうか。
誰かとの出会いや、過去…、未来も。
焦がれ、夢中になった恋でさえも。
ベッドの上にそっと下した彼の体は、深々と沈んだ。
避けられない悲しみが日常を襲っても、逃げている暇など無いのに。
貴方はずるいね。
定まらない目標を濁った瞳に浮かべている。
「現実はゲームじゃないんだぜ、先生」
「…」
「そんな顔したってリセットなんざ出来やしねェ」
「…」
「二度と、ね」
あの頃の貴方は一体何処へ行ってしまったんだ。
タイムリミットも知らず、只ひたすらに前へ、前へと駆けて行ったあの日々を。
忘れるはずないだろう?
忘れたくても、忘れれやしないんだよ。
まだ、空へと続く階段の途中だ。
貴方が孤独から逃れる為に、私は貴方に使われている。
貴方は毎日色々なものを手に入れて、孤独を癒してきた。
私もそれら『もの』に過ぎないのか。
認めない。
私達の間にあったものはそんな簡単に手放せるものだったのか。
生き死には、そんなに軽いものだったのか、貴方の中で。
馬鹿野郎。
ぎしりと二人分の重みでベッドが軋んだ。
啄ばむような口付けの後、再度、深く口付ける。
今度は彼も、少しは舌を絡めてきた。
熱を含んだ吐息が、彼の口から洩れ、私の心を妖しく揺らす。
結ばれたリボンタイを引き抜いて、シャツのボタンを第3ボタンまで開けた。
左の鎖骨が見えるくらいにはだけさせて、その白い鎖骨に、噛みつく。
「ッ、ア」
びくりと彼の体が震えた。
赤く色づいたその痕を舌でぺろりと舐め上げると、虚ろに瞳を私に向ける。
もう少しシャツをはだけさせてそのまま、右肩まで舌を移動させまた一つ、痕を残す。
少し消えかかった過去の痕が、再び赤く花を咲かせ、所有の証となる。
まだ、足りないの?
何時貴方は、復活するの…?
それともこのまま逝ってしまうの?
そんなの嫌だ。
この温もりを確かめる為に、もっと縋ってくれ。
額に一度口付けを落とし、左肩に口付けたら、彼は瞳を見開いた。
「ねえ、こっちもいい?」
「…、…」
「ねえ…、黒男」
「…、ダ」
「…」
「イヤダ…っ」
そう言って彼は右向きに横になった。
何時まで隠すんだ。
もう…、もう無駄だ戻れない!
ぐいと彼を仰向けにさせ、肩からシャツを下し、剥ぎ取った。
「ヤ…っ!見るなぁあああああああ!!!!!!」
「黙れっ!お前は何時まで瞳を背けているつもりなんだ!!」
彼は悲痛に叫んで、私の胸板をどんと押した。
右手、だけで。
彼の左肩から下には何も無い。
かつて神と言われた手はもう、一つしかない。
何の役にも立たない、右手。
彼は必要最低限の時にしか義手をつけない。
それは一体どういう思いからなのだろう。
…左腕が消えた経緯を私は知らない。
聞く話に寄ると、国外で彼に反感をかっている奴が切り落とした、とか。
そのまま近くの病院に運ばれ一命は取りとめたそうだが。
彼は。
彼でなくなった。
いや…。
『ブラック・ジャック』から『間 黒男』になってしまった。
「やめて、やめて…っ、見ないで、頼むからぁ!!」
「ふざけるな…、ちゃんと現実を見ろ!!」
こんな攻防も何回目かな。
哀しい笑みでも浮かべたのだろうか。
彼が、私の胸板を押すのをやめた。
やめたかわりに彼の目尻には涙が浮かび、頬を涙が伝い始めた。
過去を受け入れてしまうと、壊れるとでも思っているのか。
違う、受け入れて、強くなればいい。
何時も患者に言っていたように、生きる希望を見つければいい。
『言うは易し行うは難し』…ともいうか。
「…って…、私は…、もう…っ」
「必要とされてない、とでも?…馬鹿言うんじゃない!!」
「っ…!」
「お前には俺が見えないのか!!!」
彼の顎を抑えつけ、その紅い瞳に視線を投げ入れる。
涙で滲んだ瞳は、それに堪えられなかったのか、ぎゅっと瞳を閉じてしまった。
まだ小声で、どうしようもない言い訳を繰り返していたが、聞こえない振りをした。
私は彼の左肩に口付け、頭を撫でてやった。
少し瞳を開き彼は私の背中に右腕を回したが。
はっとした様子で瞳を見開いた。
ダ キ シ メ ラ レ ナ イ 。
抱き締められない?
それならばその2倍、抱き締めてやる。
「キリコ、キリコぉ…!ごめんなさい…っ」
「何で謝る。お前は何も悪くない」
「、う…ぁ、ああああ…っ!!」
「泣きたきゃ俺の腕の中で泣け」
彼の隣に体を横たえ、強く抱き締めた。
全部ひっくるめて、息苦しいくらいに、強く。
彼の泣き声で満ちた部屋には、二人分の命の鼓動。
そうさ、生きている。
だから、逝くときはきっと
二人で
貴方が 寂しくないように
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06.07.08