右肩の包帯







初めて会ったのはパリの中央図書館だった。
報酬が2億の仕事だったので、今回の術式について調べに行った時の事だ。
回覧禁止の区画を病院から申請してもらった許可書で入っていった先に彼はいた。


彼は眼鏡をかけ、髪を結び、細菌学の本棚を見つめていた。
別にその時は気にも止めなかった。
ただその繊細な容姿、銀の髪、そして閉ざされた左眼が印象的だった。
特に気にかける事もなく彼の横を通り抜け、必要な書物を片手に来た道を折り返した。
そしてその区画を出ようとした時


「こんにちは、ブラックジャック先生」


見ず知らずの彼の第一声だった。
心の底に響くような低くて甘いバリトン。
私は思わず振りかえった。何故名前を知っているのか。
医学関係者ならモグリで悪名高い私の名前を知っていてもおかしくはないが。
それに明らかに日本人ではないのに、妙にアクセントの合っている日本語。
全てにおいて彼は警戒すべき存在だった。


手に持っていた細菌学の書物を本棚に戻し、彼はゆっくりと私に近づいてきた。
深い蒼色の瞳が、私を捕らえていたのを今でもはっきりと覚えている。


「こんにちは、天才外科医のブラックジャック先生」


そして彼は私の前で跪き、丁寧な手付きで私の左手を取り、手の甲に口付けた。


私は持っていた書物を床に落とした。
頭が異常に混乱していた。
鼓動が、心臓が張り裂けそうなくらい脈打っていた。
話す言葉が見つからなく口を無意味に開閉させていると彼はすっと立ちあがり、
今度は本当に口付けた。
顎を少し上に持ち上げられ、静かに口付けられた。

驚きのあまりに暫くは動けなかったが、現状を把握して彼の胸板に手を押し当ててみてもびくともしない。
その一方で彼からの口付けはだんだん深いものに変わっていった。


「ウ…やめ……っ」
「やめませんよ」


最初は彼の国での軽い挨拶なのだろうと思っていた。
それでも混乱していたのは、経験上こんなことが今までに無かったからだ。
しかしそれよりももっと混乱する出来事が今起こっている。
キス?男同士で?馬鹿いっちゃいけない。
たとえ外国人であろうと、母国の挨拶だろうと、日本人の私には拒否反応が起こる。


「ン…!っ、は、やめろ!!」


やっとのことで彼の口付けから開放された。
…のはいいのだが、何故かうまく腰に力が入らず、壁伝いにずるずると床にへたり込んでしまった。
口の端に伝っている唾液を無造作に拭く。
落ち付こうと思っているのに、息は上がったままだ。


「初めまして。私はドクター・キリコです」


目を見開いた。彼の顔を凝視する。
その顔は私を見下したような瞳と、支配感に溢れている表情の顔だった。
へたれ込んでいる私に目線を合わせるように座り込むと、彼は私の肩に手を置いた。

ドクター・キリコ。裏の世界で悪名高い安楽死医。
それくらいは知っている、顔は知らなかったが別に驚かない。
私が驚いているのは何故こんな事をしたかだ。
明らかに相反し合っている私に、普通の奴ならこんな馬鹿げた事はしない。


「何で…っ」
「貴方を憎んでいるからですよ」


彼はそう言いながら両手に力を込めた。


「ぐァ…!!」
「貴方よく裏で糸を引いて私の患者を横取りしますよね。いい加減腹が立ちますよ…」
「うあァアアっ…!!」


肩の関節が外れるんじゃないかと思うくらい強い力で握りこまれた。
何とか足で抵抗しようと思ったが、彼はそれも承知で私の足を大きく広げたその間に腰を下ろした。


「一回拝見したいと思っていましたが…。まさかこんな所で会えるとはね。出張手術ですか?頼もしい事だ」
「ウ…あ、ア……」


ぎりぎりと両肩に力が込められる。手も足も出せなかった。
圧倒的な力における圧倒的恐怖が私の中にあった。
赤いシグナルが高速に点滅を繰り返す。


こいつは危険だと。


「放、、、せっ!この、人殺し!!」
「ほう。この状況でまだ悪態が吐けますか、、、。まったくもって憎たらしい…」
「っ…痛!」
「手術は明日ですか?今の私には手術が出来ない手にするくらい、どうってこと無いんです…」


途中で言葉を切った彼は、瞬発力も込めて私の右肩に力を注いだ。


「…よ」


ゴキリ


くぐもった音が右肩に響く。
間接が外されたのだ。


「ウぐッ…ァっ……!!!」


耐えた。ひたすら耐えた。
この痛みに。この屈辱に。この恐怖に。この男に。
体がカタカタと震えた。抵抗する気も失せた。
両手を外され、開放された左手で必死に右肩の痛みを押さえる。

彼は無言で私を見つめていた。

私は無言で彼を睨み付けた。

すると彼はまた私の右肩に手を添え


ガコン


と右肩をはめ直した。
失神するくらいの痛みだったが、唇をかみ締めて耐えた。
酷く屈辱的だった。


「明日の手術までに痛みが完璧に取れているとは保証しませんが、、、。まぁ貴方の執念深さなら脳外手術くらい出来るんじゃないんですかね」


先刻床に落とした書物の名が、『脳外術式』だったためか、彼は明日の術式をずばりと当てた。


「さて、送っていきますよ。東第一病院ですよね?」


そう言って彼は私を抱き上げた。
何故依頼側の病院名を知っているのか分からないが、そんな事どうでもよかった。
もう何も言えなかったし、何も考えられなかった。
ただカタカタと震え、されるがままになっているしか成す術は無かった。
圧倒的な恐怖に私は押さえ込まれていたのかもしれない。
属に言うお姫様抱っこで私は図書館を後にすることになった。

途中彼の泊まっているホテルなのか、高価そうなホテルで下ろされ彼の部屋で右肩の治療を受けた。
何でわざわざ憎んでいる相手を痛めつける事が出来たのに治療をする必要があるのだろうか。
変な疑問が頭に浮かんだので質問をしてみた。


「こんな面倒くさい事をするくらいならいっその事、もっと完璧に腕を折れば良かっただろう」
「そんな事したら明日の手術が出来ないでしょう?」


まさかの返答に驚いた。
彼は全く謎の存在だった。
憎んでいるのか、心配しているのか全く表情が読み取れない。
包帯を巻いている真剣そうな顔も、偽りのものとしか思えなかった。
しかし、痛みを訴えれば暫く手を止めてくれ、また巻きなおす優しさにさらに複雑な気持ちになった。

治療の間中私は今回の術式の手順について話し、それに彼は深く何度も頷いた。


「必ず助ける」
「ええ…。頑張ってください」



丁寧な治療の後。
彼が昔軍医であった事を聞き、過去に正規の医者であった事を知る。
安楽死医への道は、軍医時代の頃気付いたとの事だった。
もう正規の医者には戻れないのか、そう聞いたら、彼は哀しそうな瞳で笑った。

治療が終わるとホテルを出発し、すぐ第一病院に着いた。
車を下ろされ、本を手渡される。

最後に彼はそっと私の右肩に口付けた。


「手術が終わったら、ホテルにいらっしゃい。手術内容や経過が聞きたい」


そして左手にホテルへの名前と部屋番号が書かれた紙を手渡された。


「嫌ですか?」


何も言わない私に彼は問い掛けてきたが、私は無言で彼に背を向けた。







何も分からなかった


何がなんだか分からなかった


知らずのうちに涙が頬を伝った




右肩が











熱かった










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05.10.16