医者失格








電話が鳴る。
寒さが肌を刺す霜月の夜。
コーヒーを淹れリビングで書物に瞳を通していた私はふと顔を上げる。
時計に焦点が合う。11時だ。
夜遅く、3度コールした電話の受話器を取る。


「もしもし」
『ああ、ブラック・ジャック…頼みがあるんだが』
「何だ…?こんな夜遅くに」
『…』


キリコからの電話は久しぶりだった。
数ヶ月前に尋ねたきりで忙しくなかなか逢いに行けない日が続いた。
彼の声も何だか懐かしい気がして受話器を握る手に力が篭る。
こんな夜遅くに一体何なのだろうか。


「…キリコ?」
『―――、俺を…看取って欲しい』
「え…」


言葉が喉で詰まる。
待ってくれ
まだ 私は
何を言っているのかが分かっていない


『もう長くない。多分、今日が最期だ』
「っ、…」
『ブラック・ジャック…?』
「…何で俺を呼ばなかったんだ!!!」


喉に詰まった言葉が一気に飛び出た。
語尾が叫んだため掠れる。
久しぶりの会話がこれか?
待ってくれ
こんな事 


『分かったのは、三日前だ…、肺癌レベル5だ…、もう、時間、が…』
「行く!今から行く!だからっ…死ぬな…!!」


受話器を投げ捨てコートを羽織り無造作に車の鍵を掴む。
涙が止まらなかった。
君が
何処かへ逝ってしまうなんて。
玄関を飛び出て車を出す。
アクセルを思いっきり踏んで、祈る。
どうか彼が消える前に。
どうか。

好きだった。
嘘じゃなかった。
愛無き私を拾ってくれた。
優しく撫でてくれた。
抱きしめてくれた。
口付けを交わした。
愛し合った。


その終焉を告げるのは何だ。
どちらかの死なのか。
いくらでも窮地に立った事のある私は死ぬ覚悟という物は何時でも用意できた。
しかし
大切な人が死ぬ、という覚悟は無かった。
それがこんなにも哀しいなんて
こんなにも苦しいなんて思っても見なかった
母さんが死んだ時は薄々覚悟はしていたのだ。
もう長くはないと。
だが何故数ヶ月前に言葉を交わした彼が
口付けを交わした彼が
あの 彼が


人気が無い静かな雑木林に囲まれた彼の家がだんだんと近づいてくる。
家まで後数メートルの所で私は車を乗り捨て走った。
玄関の扉を押し開け、彼がいるであろう寝室に向かう。
その扉を開きっぱなしで中からは咳き込む声が聞こえた。
息を切らしていたが、私は体に鞭を打ってその部屋まで走った。

部屋を覗き込めばベッドの上に蹲っている彼が瞳に入る。
急いで駆け寄り彼を抱き起こした。


「リ…、コっ…」
「…来てくれて有難う」
「馬鹿ぁ!!…何ですぐ呼んでくれなかったんだ!!!」
「呼んだところで治せやしない…お前が俺の事で苦悩するところを見たくなかったんだ」


泣き縋っても失った時間はもう取り戻せなかったし
彼の言う通りで私には何も出来なかった。
でも私には泣く事しか出来なかった。
逝くなと言ってもそれは虚しいだけで
私は必死にその言葉を紡ぎそうになった唇を噛み締めた。
ベッドに伏せて泣いていた私の頭に彼の手が触れる。
反射的に私は顔を起こした。


「抱きしめても、いい?」
「―――っ!!」


何時もだったら何も言わずに抱きつくくせに
こんな時だけ優しくて
私は彼より先に抱きつき、きつくその体を抱きしめた。
首元に顔を埋めて泣いた。
鼻がつんと痛くて
喉が無性に乾いて
嗚咽を漏らしながら私は彼に抱き付いていた。


「ブラック・ジャック…なあ、俺を、愛しているかい?」
「っ…、…!」


胸が哀しみでいっぱいで、すぐに声が出なかった。
リズムが取れない呼吸を繰り返しながら彼に背中を擦られて
私はやっと声を絞り出す事が出来た。


「あ、あ…愛して、っ…きりこぉ…っ」
「ちゃんと、俺の瞳、見て言って?」
「愛して、るっから…、っ…嫌だ…、…」


無駄な抵抗を
悪あがきを
馬鹿な 事を


「ごめんね…」 
「嫌だよ…、嫌だ…」
「ごめんね、先生」



もう、毒は飲んだんだ。



「っ…や…」
「後は、先生がこの装置のスイッチを入れるだけだ…」
「嫌だ!…そんなのっ、俺がお前を殺したようなものじゃないか!!!」
「でも俺は…それで救われる…」


彼の脇には安楽死の装置が置いてあって
その脇には心電図のモニターがおいてあり、規則正しい音を打つ。
彼の頭にはもうプラグが付けてあって
彼が救われるというその選択しか
私には残っていなかった


「キリコっ…!」
「いいんだ、先生…毒を飲んだのは俺だ。さあ、早く…楽にしてくれ…、…」
「キリコ…、なあ、頼む…、俺を、名前で呼ん、で…」
「…スイッチ、入れて…?」


言われるがままに私はがくがくと震える手をスイッチに伸ばしたが
一歩手前で手が止まった


「出来なっ…!だって…、嫌…っ」
「っ…押せ!!!」
「ッ…!!」


びくりと体が揺れた。
その振動でスイッチのつまみが下に押される。
慌てて上へ上げようとしたら横から手が伸びて阻止される。


「有難う…な、看取ってくれて…」
「あ…ァ…っ!」
「有難う、何も出来なくてごめん」
「キリコぉ!!!」
「最期に俺の名を呼んでくれて有難う」


装置の起動を阻止しようとした両手は彼の両手により塞がれる。


「有難う、黒男」


そう言って、彼は瞳を閉じた。
私は泣き叫んだ。
心電図のモニターに異常な線が描かれる
私は条件反射で心臓マッサージを始めた。


しかし再び両手を封じられる。


「!?」
「…、ぁ…」


意識があるのか、無いのか
彼が何かを呟いた
私は手首に巻きつく彼の手を組ませ、その上に両手を被せ握り締める。


「キリコ…っ」
「愛して…る、黒…、…お」


はっと顔を上げた。 心電図の線が、直線に変わった。
彼は死んだのだ。
彼は死んでしまったのだ。
もう、過去の人間になってしまったのだ。


「キリコ…、キリコぉ…っ…」


天才外科医 神の手を持つ医者
それが何だというのだ
目の前で人が死ぬのを見ているのの何処が医者なのだ


「医者失格だ、な…」


突然の死に
対抗する術は無く
私に出来た事は 一体
私は君に御礼を言われるような事は一つも
最期のうわ言だけが頭に響いている


目の前に横たわるは私の恋人
二度と目覚める事はなく
二度と言葉を発する事もない恋人




ごめん 






ごめん









何で私は














君を   治せなかった







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05.11.13