安らぎの代償






潤いが消えた大地に埋もれていくようだ。
視界は黒く閉ざされ、呼吸の術も途絶える。
喉の奥底まで土に侵食され、叫べない。
砂利の味、嘔吐感が押し寄せる。
圧迫された空間では思考が駆け巡るだけで、身動き一つ取れない。
誰も知らない悲劇に独り飲み込まれていく。
一筋の光すら瞼に感じる事が出来なかった。


「っ…!」


見開いた瞳は、何時もと変わらぬ無機質な天井を見ている。
耳の奥から鼓動が聞こえた。
何かに怯えたような、動揺しているような嫌な汗が体中の穴から噴出していた。
汗ばんだ手を握り締めて、唾を飲み込む。
心像の連続、嫌な幻覚だ。
頭を振って、ソファから身を起こす。
散らかった机の上には存在を否定され丸められた紙が転がっていた。
死の連続、嫌な現実だ。
それらをごみ箱に放り投げ、コートを羽織る。
瞳を擦り眠気を引き剥がした。
何もいらなかった。
言い訳さえ持って行けば入れてもらえる。
肌を刺すような風の中ハーレーに跨り、私は夜の闇に溶けた。

彼の家は暗かった。
私は静かな細波と容赦無い暗闇に包まれ佇んでいる。
色を無くしたポケットの中の合鍵が一度だけ脈打った気がした。
そっと家の扉に触れる。
冷たい木の質感が手の皮の向こうから伝わってくる。
先を分かつ隔たりは随分と薄い。
それに背を預け私は扉の前に蹲った。
小刻みの体を抱き締め、いっそこのまま死のうかと思った。
風が吹き付ける音が耳元で轟音に変わる。
舞う髪が乱れて凍り付いていくようだ。
腕を組んだそこに顔を埋める。
感覚を無くし始めた悴んだ手で服を握り締める。

いっそこのまま死のうかと。
此処に来た言い訳も、求めた温もりも、この感情でさえ。
無意味なものなのだと思う。
そして私自身も。
使い捨てのこの思考や肉体を今誰に捧げれば良いだろう。
薄っぺらな理性を突き破って剥き出しの本能が、境界線ギリギリに立っている。
誰よりも臆病な私はそれより先へ進めない。
本当の事を言えない。
優しささえも偽りに見えてしまうのだ。
否定に蝕まれた心はどんなに脆いことか。
渦巻いた思考は痛みを通り越して麻痺していく。
柔らかい眠気に静かに身を委ねようとした。


「―――りこ、キリコ!」
「…っ」


肩を揺さぶられ顔を起こす。
少しぼやけた視界に彼の顔が見えた。
困惑した表情で屈み込んで私と目線を合わす。


「どうしたの、ああもう、体が冷えるだろう」


彼が私の頬に触れる。
体温が指先から溢れ出て私の頬に染み込んでいった。
思わず瞳を細める。
彼は首を傾げ、仕様が無い、という顔で立ち上がり扉の鍵を開けた。


「……」
「キリコ、立って。ドアが開かない」
「…ああ」


私は立ち上がり彼の後ろへ回る。
扉を開けると今度は彼が私の後ろへ回って背中をぐいぐい押してきた。
後ろ手に扉を施錠し、そのままリビングまで押されていく。


「火を付けるから、座って」


私は命令に従い、暖炉の近くのソファに腰を下ろした。
彼はコートと診療鞄をソファに置き部屋の電気を付けた。
部屋が光に包まれそれだけで私の張り詰めていた思考が解ける。
彼が暖炉に薪を組んで火をくべると,また違う光が私を照らした。
心地よい温かさが身体を包む。
私は静かに瞳を閉じた。
ただ、純粋にその温かさを感じていた。
瞼に揺らめく光が映る。





"おじちゃん、なんで、パパしんじゃったの"
"死ね!お前なんか…っ、この人殺し!!!"





「…!!」


今まで感じていた心地よさが消えうせ、また嫌な現実を思い出した。
昨日看取った患者の、遺族。
依頼人は男。
その妻と、小さい子供。
慣れきった痛みに今更傷口が開いて、知らない内に流れていた。
正当な否定に、今も耐えている。
苦しくて堪らない。
後悔は無い、ただ苦しいだけだ。
早く、彼が欲しい。
早く。
私は立ち上がりコートをハンガーに掛けている彼に近付いた。
彼が私に気が付き此方を向く。


「キリコ…」
「……、…嫌な事があった」
「…」
「ああ…、本当、泣き出したいくらいだよ…」
「…とりあえず、座、」


強く抱き締める。
それこそ息が出来ないほどに。
この腕の中にある温もりが嘘ではないと、彼の存在を確かめる。
微量の石鹸の匂いに、泣きそうになった。


「キリコ、苦しい」
「ああ」
「…キリコ、どうしたの」
「何でもない」
「………、…そう、か」


そう言って彼は私の背に腕を回した。
私は少し腕を緩めた。
鼓動が伝わり合う。
肉付きの良い彼の身体が、至極柔らかく感じられた。
こうしているだけで全ての罪から逃れられるような錯覚に陥る。
彼を利用しているわけではない。
重なり合った闇に二人で触れたいだけ。
乗り越えられない壁に挑む私達を全ての人間が笑ったとしても。
二人でいたいだけ。
望むものはやはり無理矢理なものだ。
何とはなしに哀しくなってくる。
そのタイミングで彼が呟いた。


「キリコ……、座ろう」
「…はい」


戒めを解き、彼も解く。
手を引かれくべられた光に照らされる場所まで。
二人掛けのソファに座り隣の彼の上に倒れこむ。
膝の上に頭を乗せると、彼がさらりと髪を撫ぜた。


「先生…、ごめんね」
「何が…」


誰よりも臆病な私はそれより先へ進めない。
本当の事を言えない。
優しささえも偽りに見えてしまうのだ。
彼の優しささえ、離れれば虚ろう。
それは彼の所為ではないのに。
どれだけ病んでいるのだろう。


「俺、先生も信じられなくなっちゃった」
「…」
「ごめんね」
「……キリ、コ」
「…、…ごめんね…」


私は静かに瞳を閉じた。
今度こそ、彼を感じながら安らかな眠りにつけるだろうと。
爆ぜる炎が細めた瞳に映り、そして視界は閉ざされた。
紛れも無い心地よさと罪意識の薄れ。
こんなにも心が掬われる。
私は優しい眠気に誘われ、意識を手放した。
























「……っ…、キリコ…、何故、…私に話してくれな、い……っ?」
































その刹那、頬に生温い雫が落ちた事に私は気が付かなかった。



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07.01.20