Frozen smile
「先生…」
「どうした?…ピノコ、顔色が悪いぞ」
「ううん。何でもないの」
先生こそ、最近変なのよ。
偶にだけど、何かに怯えているみたいに、顔が青ざめているの。
それに先生自身は、気が付いていますか?
カルテとにらめっこをしている先生に私はそっとコーヒーを淹れる。
晴天、春の夕方。群青色が空一面に広がる時間。
その色はとても綺麗なのに、私は怖かった。
その色はとても綺麗なのに、私が思い出すのは、あの瞳。
以前出会った、『殺し屋の出来そこない』。
左眼は隠れていて分からなかったけど右眼は深い、深い群青色だった。
それでいて透き通っていて、まるで氷のようで。
加えて無表情なその男の人は先生の言うとおり、本当に死神みたい。
それからだっけ。先生の表情がオカシイのは。
「ピノコ…空に何かあるのか?」
「えっ?」
「先刻からずっと空を見上げているから―――っ」
「…っ、先生…!」
私は咄嗟に先生の足元に抱き付いて立ち上がるのを防いだ。
だって。
だって先生がこの空の色を見てしまったら、きっと。
「もう暗いな〜って思ってたの!だから、カーテン閉めるね!」
「?…ああ」
「あ!ちゃぁんとスタンド点けなきゃダメ!眼ぇ悪くなっちゃうのよさ!!」
「分かっているよ…」
先生はまだ足元に引っ付いたままの私をそっと抱き上げて、優しく床に下ろした。
本当に優しくて、本当に格好良くて、大好きな大好きな先生。
スタンドを点け、再び椅子に腰を掛けるとまたレントゲンを片手にカルテを難しい顔で見ていた。
私はカーテンを素早く閉め、胸を撫で下ろした。
何故こんなにも安堵するのだろう。
先刻、もし先生があの空を見ていたら。その先は。
「…っ?」
いきなり心臓がドクドクと脈を打ち始めた。
ああ。折角、カーテンを閉めたのに。
あの人の事を思い出さずに済んだと思ったのに。
外からエンジン音が響く。
訪問者だ。
嫌でも先生が外を見てしまう。
どうしよう。
「誰か来たみたいだな…」
私の不安を他所に、先生はすっと立ち上がった。
「行かないで、先生」と言いたいのに声が出ない。
「私が出るから」と言えばいいのに口ががくがくと震えている。
何かとてつもない、恐怖が扉の向こうにある。
私はそう、直感した。
玄関へと向かう先生を、ダイニングの扉を少しだけ開いて覗く。
まだ何も起こっていないのに、私の頭の中はあの男の人の姿で頭がいっぱいだった。
そこに、いる。
分かる。
「どちら様で――――、」
「こんにちはブラック・ジャック」
ああ、先生。どうか。
どうか気付かないで。
その人の瞳の奥、底無しの深い闇。
先生はきっと、飲み込まれてしまう。
案の定、玄関を開いた瞬間先生の体が凍ったように固まった。
ドアノブを放した手が、行き場も無く震えている。
ざっと、後ずさりをした先生の震えていた右手を、死神は捕らえた。
「っ…な、で…此処、に」
「何でって、逢いたかったからですよ」
「放せっ…!」
「私と一緒に来てくれるのならば?」
ぎりと絡みついたその手を引き剥がそうと先生は頑張っているけど、
私は無理だ、と思った。
痛いと訴えている先生を、死神は、やはり無表情で見つめている。
生きながら死んでいる人…変な日本語。
でも、そうとしか形容する事が出来ない。
何で先生にちょっかいを出すの?
先生は貴方が嫌いなのに。
それはわざとなの?
やめてよ。
扉を開けて、先生の元へ向かおうとした時、
先生の体が揺れた。
鳩尾に死神の拳が食い込んでいた。
「…っあ、は」
「…、…馬鹿な人だなぁ」
数秒も経たない内に先生の体はずるりと力なくその場に崩れ落ちた。
死神は、先程の拳は何だったのかと思うほど丁寧に、先生を抱き上げる。
「ねぇ、君は馬鹿だね」
そして死神は、瞳を貫くかと思うほど鋭い視線を私に投げ掛けた。
今の言葉は、確実に私宛てのものだ。
足ががくりと折れて私は先刻の先生同様、床に崩れた。
そのまま死神は、先生を、抱き上げたまま何処かへ去っていってしまった。
恐ろし過ぎて、声も、涙すらも出ない。
だって、そいつは先生を無表情で見つめているのに。
そいつは。
だって私は、
見てしまったのだ。
そいつの顔は無表情、なのに
口元だけが微かに緩み
そこから白い歯が覗いていたのを
Text Top
06.03.23