その桜の木の下に






「桜の花がピンク色に染まるのはな、その木の下に人の死体が埋められているからなんだって」
「…それは日本の言い伝えなのか?」
「何処かで聞いた腐れ文句さ」



只、その桜の木の下に君を埋めたのならば。
きっと色鮮やかな花が咲くだろうと。
宵の口でふとこぼした彼の一言が、聴覚に響き心に焼き付いた。
一口、また一口と彼は酒を呷る。
春風は、すぐ傍の潮の香りを巻いて吹きぬける。
まるで桃色の海に浮かんでいるような、そんな感じだ。


私は、桜の木の下で酒を飲んでいる彼が心底美しいと思った。
同時に、この木の根本に彼を埋めてみたいとも思った。
この薄い桃色が、一体何処まで鮮やかな紅になるのだろう。
彼の血液の色は見た事が無い。だが多分瞳の色と一緒だ。
白眼の上に浮かぶ瞳の中に確実に揺らめいている紅は、それはそれは美しい。
この満開の桜よりも、何よりも、輝いている。
ゼラチン質で出来たルビーのようだと、妙なたとえを思い付いた。
そしてその美しい、ルビー色の血を吸った桜がどうなるのかが知りたかった。
言い伝えに過ぎないだろうが、至極、興味が沸く。



「…人間の血でないと駄目なのか?」
「何、お前。信じてるの」
「いや…、すこし興味があるだけ、だ」
「ハハ、只の言い伝えに過ぎないぜ…、日本のオカルティックな一面さ」
「そこに桜を用いるなんて洒落ているじゃないか日本人も」



適当に話に花を添えた。
だが事実『桜』という、大木を容易に連想出来る様な物をこの言い伝えに選んだのは正解だろう。
彼岸花のように死臭漂う花でも、迫力には欠けてしまうからだ。
私はその大木が死者の血液を吸い上げる様を、脳裏に鮮明に思い浮かべた。
まるで血に飢えた獣のような桜の木の根本に、今一つの死体が埋められる。
大木は喉を鳴らしながら血を飲み干し、自身の分身とも言える花を染める。
最後の一滴を飲み終わった瞬間に、『桜』は快感を得る。
それを告げるのが、何処からともなく吹く春風だったら面白い。
魂も血液も、温度のあるものを失った肉の塊が腐敗するのは実に容易い事だ。
放っておけばいい話である。
しかし、例えば犬を殺して埋めてみたとしても、私は納得がいかない。
獣の血なんて、反吐がでる。生臭いだけだ。
人間…、いや、彼の血だ。



「日本人っていうのはなァ…」
「?…、…ああ」



頬を桜色に染めた彼がとろんとした瞳で口を開いた。
先刻の適当な相槌に対する答えだろうか。
まさか食い付いてくるとは思わなかったので慌てて思考をリアルタイムに戻した。



「馬鹿な事にだけは頭が働く人種なんだよ」
「っくっはっは…、お前、自分の事をけなしてるようなモンだぜ」
「俺は別格なの。だって天才外科医だもん」
「自分で言うか、普通」



相当酔っている。
ペースは速いが、まだそんなに飲んではいない筈だ。
彼はムードに流されやすいタイプなのだろうか。
桜の木を背景に海を眺めながら呷る酒はさぞかし美味いのだろう。
私の思考はそのオカルティックな言い伝えで膨れ上がっているというのに。


チャンスだと思った。
彼を殺して、この木の根本に埋める事が出来ると。
確信があった。
桜と海という特に似通う部分があるわけでもない2つが結び付く隠れスポット。
誰も知らない、孤島の一時。
この島を買ったのは冬だったから知らなかったが、この木は桜の木だったのだ。
最初は彼と花見がしたいという純粋な思いからのこの企画は、
今や思いも寄らぬ殺人計画へと発展を遂げようとしている。



「…?どうした、キリコ。私の顔に何か付いているのか?」
「え、いや…、別に。このムードに酔って眠気が襲ってきたんだ」
「ふうん…」



少し口を尖らせた彼がまた、酒を呷った。
何時の間にか私は彼を凝視していたようだ。
考え事を始めると目の前が真っ暗になるから、困る。
思考が妄想の波に飲み込まれ、現実から掛け離れていく自分がいた。
軽く頭を横に振り、眠気を覚ますような素振りを見せる。
このまま酔い潰れてしまえば手も足も出ないだろう。
絞殺して死体を埋めて、来年見に来れば良いだけなのだ。


しかし私は彼を殺しはしなかった。
別に自分の中の良心が欲望に静止を呼びかけたのではない。
もし彼を地中に埋めてしまったら、殺してしまったら。
あの綺麗な瞳がもう見れなくなると思ったからだ。
彼の血に染まった桜の花弁を身に纏う快感より、彼の瞳を無くす事が惜しく思えた。
今まで見てきたどんなものよりも美しいその瞳を見れなくなるのが嫌だったから、私は。
彼を殺さないでおこうと思ったのだ。











けれども想像してみると、その桜の木の下に冷たく眠る彼はとても綺麗で











それもまた悪くないのでは、と。

















そして私の手の間接は、ぺきぺきと彼を死に追いやる準備を始めるのだった。





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06.04.01