優しい嘘は戦場に







また、彼が戦場に行くなんて考えられますか?






空気が冷え切って雪がしんしんと降る真夜中。
彼は私の家に訪れた。
予想をしていたわけでは無いが、何か嫌な予感が。


「…いらっしゃい」
「夜分遅くにすみません」


薄く雪を纏った彼のコートを受け取り、雪を落とす。
暖炉の前に無造作に並べられたソファに彼がそっと腰掛けた。
そのコートを風呂場に持って行き、風呂場の中を乾燥の状態にして乾しておく。
帰りがてらにキッチンへ寄り二人分のコーヒーを淹れた。
何故だろう。
彼の顔色が良くない。すこぶる良くない。
これから何が起こるのかが、手に取るように分かった。
嫌な汗が背中に伝う。
どうしたものか。今すぐにこの場から逃げ出したい。
でもそれは無理な事だし、私はこの状況の結末まで此処に居合わせなくてはならなかった。


「どうしたの、こんな遅くに」
「…実は」


ごくりと彼が喉を揺らす。
膝の上で手を組んだままで、心無しかその手は震えているようだった。
コーヒーを机に置きながら、ごく自然に二人分のソファの彼の隣に腰を下ろす。


「実は、また、戦場に行く事になりまして」
「―――…、…」
「昔の仲間が、良い軍医がいるとかで勝手に話を軍の方にしてしまって…」
「…そうなの」


膝の上で握られた自身の手が汗ばむのが分かった。


「けれど、必ず帰ってきますので…貴方に待っていてほしいのです」
「…どれくらい?」
「そうですね…、2年は続くかと思われますが」


俯いたまま軽い笑みを溢して彼が呟く。
瞳を合わそうとしないのは、自分がもう此処へ帰って来れない事が分かっているからでしょう?
何でそんなに優しいのかな。
こんな醜い私のために、貴方までそんなに落ちぶれなくてもいいのに。
本当に、優しい人。


「優しいな、お前は」
「、、、何がですか?」
「そんな嘘、ついても無駄だよ」


コーヒーカップの淵をそっと中指でなぞる。
その私の指先を彼は視線で追いながら、そのまま私に顔を向けた。
私はコーヒーカップを見つめたまま呟いた。


「お前はもう帰って来やしない」
「…」
「最後まで優しいね」
「そんな」
「優しいね…」


涙が頬に伝うのは、きっと自分が哀しいからであって。
彼という存在のお陰で、自分が愛という物を再び感じる事が出来るようになった自覚症状。
独りでいる時間を寂しく感じるようになったのも、彼に出会ってその腕で抱き締めてほしいと思うのも、
全ては彼の存在があったからで。
同姓だとかなんとかいうのは愛し合うのに関係ないというのも、
彼なりの自己中心な思想なのに妙に納得出来てしまった。

逢いたい時に逢えないのが寂しくて、電話をした日。
何度も何度も電話越しに大丈夫だ、と囁かれて。
一人じゃないからと言われて、とても嬉しかった事も。
彼といる間は幸せな思い出として残るだろうけど、いなくなってしまったら
哀しい思い出にしかならない。
普通は懐かしがって楽しかったな、と思うのだろうけど。
その幸せな思い出を一人で思い出して、それを幸せと感じる事なんてきっと出来やしない。
二人でいた幸せな時間を二人で思い出す事が出来ないのであれば
そんな思い出なんていらない。


「バイバイ、元気で」
「先生…っ」
「戦場でもあんたは、私にするみたいに、笑って…いてほしい」
「―――っ」


何時も笑っていてほしい。
心の中だけでいい。
哀しい現実を見ながら、それを目の当たりにしながら、生きる喜びを噛み締めていてほしい。
安楽死なんか忘れるくらいに、戦場で、目の当てられないような患者にも精一杯尽くしてほしい。
それで貴方が笑って死ねるなら、本望なのかな。


「愛してるよ、キリコ」
「ブラック・ジャック…先生…」
「嫌だなぁ、黒男って呼んでくれよ…」
「…最後じゃありませんよ…必ず帰って来ますから」


そっと寄り添った体を彼が抱き締めてくれる。
嬉しかった。


「キリコ…」
「…黒男」
「幸運を、祈るよ」
「…、…愛していますよ」


暫くの間、私達は無言で抱き合っていた。
彼の、息遣いを忘れはしない。
この腕を、この声を、顔を。
この優しさを、、、忘れはしない。忘れてなんてやらない。


「そろそろ、帰れよ」
「…そうですね」
「何時発つかは言わなくていい…これで、踏ん切りはついただろう?」
「…、……」
「ほら、コート持ってきてやるから、コーヒーを飲みほしときな」


有無を聞かずに席を立つ。
風呂場に行く時、ダイニングのある物に目が止まった。
愛用のタイピンだった。
ルビーがアクセントに付いている、しかし地味な物だった。
彼に外食に誘われた時はリボンタイでは無くネクタイをして行く事が多かった。
何時もリボンタイをしているブラック・ジャックではなく、
間 黒男を見てほしかったのだ。

それをそっと手に持ち風呂場へ向かう。
先刻よりは乾いたであろう彼のコート。
そのポケットに、そっとタイピンを入れた。
気付くだろうか。気付かないだろうか。
どっちでも良かった。
只、それを戦場に持っていってくれればなと思った。

リビングに戻ると彼はしっかりとコーヒーを飲み終わっていた。


「ご馳走様でした、、、では―――」
「…うん…、…ほら、コート」
「有難う御座います」


ばさりとコートを羽織ると彼は私の方へ向き直った。
彼は私より身長が幾分高いので少し腰を屈めて、キスをした。
もっと一緒に居たかったけど、きっとそれは此処に来た彼の決心を無駄にしてしまうと思ったから。
今まで求める事はしなかったけど、今だけは。
互いに互いを求め合っても良いのではないのだろうか。

長い間キスをしてどちらからともなく口を離した。


「では」
「…いってらっしゃい」
「…いってきます」


玄関から彼が出ていく。
私は必死に唇を噛み締めた。
彼を求める言葉を、引き止める言葉を飲み込んだ。
だけど、最後にもう一言だけ。


「―――愛してるから!…ずっと、ずっと!!」
「…私もですよ!だから、待っていてくださいね…黒男!!」


息を思いきり吸い込んで叫んだら、案の定彼も同じように返事を思いきり叫んで返してきた。
ハーレーに跨りエンジン音が響く。
私は彼のサイドミラーに自分が映っているであろう位置までは笑って手を振っていたが、
彼の姿が見えなくなると、また涙が溢れ、そして止まらなかった。


きっと、彼には、もう逢う事はない。
逢えない。
戦火に燃えて彼は二度と此処には。
帰って来ないんだ。


あの腕の温もりも、あのキスの感触も、
今まで感じていた彼の温度が全て、私の体から消え去っていく。
心が痛くて、苦しくて。
只、痛くて。
全ての温度が消え去っていくようで。
雪の降りしきる中、私は体が冷えるのも気にせずに
彼の走り去った岬の道を、見つめていた。


















一年半も経たない内に、彼の向かった戦場では決着がついた。

それから半年、約束の二年後。

彼は、私の家には現れなかった。








彼と 彼の優しい嘘は










戦火に焼かれ















戦場に散った







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05.12.28