そして君は私を知らない








ずぶ濡れになった体を引き摺って、私は。
彼を抱きかかえていた。








何かの錯覚では無かろうか。
何かの間違いでは無かろうか。
彼の背に、翼が見えた。
私が計算されたかのようにぽっかりと開いていた彼との距離を駆け出した瞬間だ。
5m。
手を伸ばした。
その瞳に見えた翼を、もぎ取る様に。
ふわりと宙に浮いた体は、後、成す術無く。
目下に跨る波飛沫へと消えていった。
私はすぐさま海岸へ向かい、コート、背広、ワイシャツを脱ぎ、靴を放り投げて崖沿いに泳いだ。
素肌への海水はまだ、冷たい。
だけど時間が無いのだ。
軍時代の海軍実習がこんなところで役に立つとは思ってもみなかった。

ようやく辿り付いた彼の落下地点は、少し紅黒かった。
つんとした匂いが潮に混じって漂っている。
私は海に潜り、水を吸って重たくなった服を纏っている彼を見付けた。
ジャケットを脱がせワイシャツも剥ぎ取り、水面上へ彼の顔を引き上げる。
立ち泳ぎをしながら彼の瞳孔を見てみると開いてはいなかった。
気絶をしているだけだろうか。
幸い、その落下地点には岩石は無い。
半狂乱だった―――?
いや、彼は本気だった。あの、態度は。
不幸中の幸いとでも言おうか。もし、死んでいたら私はどうしていただろう。

浜辺に彼を引き上げて、水を吐かせた。
意識こそ戻らないが無事だという事は確かだ。
どっと、脱力する。
知らずの内に体が強張っていたのか。
浜辺に這いつくばるようにして呼吸を整えた。
意識の戻らない彼を見やると、体の古傷がぱっくりと開いていた。
落ちた衝撃で開いたのだろう。
右腕と脇腹、それに両足の傷が所々裂けていた。
20年もの昔の傷が、再び。


ずぶ濡れになった体を引き摺って、私は。
彼を抱きかかえ、歩いていた。


彼を診察台の上に寝かせた。
縫合セットを、鞄の中から取り出す。
右腕をそっと持ち上げて麻酔を打った。
命の恩人だと言っていた、本間丈太郎が縫合した痕を私が縫うなんて事が。
許されるのだろうか。
まさか。
バラバラの、死体に成り損ねた肉塊を繋ぎ合わせてきたこの術を、
一体彼に施して良いものか。



『このまま二度と瞳を覚まさなければいいのに』



私は頭を掻きむしった。
馬鹿な。何を思っているんだ。
彼の、何を、勝手にしたいんだ。
仕事帰りに入った酒場で、酔った彼から聞いた過去。
本人は覚えていないのだろうけど、私は鮮明に覚えている。
ほんの少しの断片を、何度も何度も聞かされた。
幾度となく、痛々しい描写や生々しい苦痛を。
きっと君は覚えていないのだろうけど。

全ての傷を縫合し終わった頃には、もう日が暮れかけていた。
このまま彼を一人にしておく事は出来ない。
しかし彼が瞳を覚ます気配は一向見られない。
夕日が一段と傾いて、海に溶けだし始めた。
その斜光が刺し込む手術室は、
染め上げられた色とは裏腹に薄ら寒かった。
何ともいえない焦燥感が、喉元に込み上げ背筋を這いあがる。
唾液を呑み込んでも潤う事が無い。
唇を噛み締めて、膝の上で拳を握っても震えが止まらないのに、
彼が瞳を覚ました瞬間、全てが治まった。


「…、……」


彼は無言で体を起こした。
私はそれまでの動作を、無言で見ていた。


「……ブラック・ジャック」


名前を呼んだら、首をゆっくりと此方に向けて。
首を傾げながら。
掠れた声で呟いた。


「…れ」
「何?」
「誰、だ…、あんたは…、…」


目の前が、真っ黒になった。
おそらく…、いや、確実に、彼は私の事を忘れてしまったらしい。


「…俺、は…?崖から、落ちて、それで―――」


何かの錯覚では無かろうか。
何かの間違いでは無かろうか。


「ああ…、あんたが助けてくれたのか?」


私が計算されたかのようにぽっかりと開いていた彼との距離を駆け出した瞬間だ。
まだ、間に合うと思っていた。
愚かだという事は知っていたのに、認めなかった。
認めたくない。
認めざるを得ない。






「有難う…」






ああ、ブラック・ジャック。
君は本当に君なのか。
ごめん。
ごめんね。
私は、不器用な不器用な、最悪野郎だ。
君に好きだと言えなくて、消えろと言ってしまうのだから。






「―――っ…!!!」






ずぶ濡れになった体を引き摺って、私は













自分自身を抱き締めていた







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06.05.13